都市化の初期、大正九年の町別統計並びに分布を示すのが第125表及び第84図である。品川町の統計を見ると北品川宿(約一・二万)と南品川宿(約一・七万)に人口が多く、次いで二日五日市(ふつかいつかいち)町は約六、九〇〇、歩行新宿は約二、九〇〇となっており、東海道沿いの旧宿場町が人口集中地区となっており、それに対して海岸部の猟師町・利田新地は一、〇〇〇人程の人口を有する漁村としての存在であったことがわかる。一世帯あたりの平均人口をみると、歩行新宿が五・六五人と多い上、男女の比率が女子一一〇・三五と高いことは、遊廓と関係のある数値であろう。この人口を明治七年時の各町の人口と比較してみると、北品川宿が四倍、南品川宿三・一倍であるが、二日五日町は三八倍と非常に高く明治初期には農村部であったこの地区に、多くの人家が立ち並び、人口が増加したことを物語っている。また、歩行新宿は一・八、猟師町一・七倍と少なく、利田新地は六・六と増加している。
町村別 | 世帯数 | 男 | 女 | 計 | 一世帯平均人口 | 男100に対する女の比率 |
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品川町 | ||||||
北品川宿 | 2,633 | 6,097 | 5,830 | 11,927 | 4.46 | 95.62 |
歩行新宿 | 513 | 1,381 | 1,524 | 2,905 | 5.65 | 110.35 |
南品川利田新地 | 236 | 517 | 487 | 1,004 | 4.25 | 94.20 |
南品川宿 | 2,811 | 8,846 | 8,180 | 17,026 | 4.44 | 92.47 |
二日五日市 | 1,592 | 3,649 | 3,218 | 6,867 | 4.19 | 88.19 |
南品川猟師町 | 309 | 696 | 634 | 1,330 | 4.30 | 91.09 |
計 | 9,094 | 21,186 | 19,873 | 41,059 | 4.46 | 93.80 |
大井町 | ||||||
大井町 | 8,250 | 18,388 | 18,271 | 36,959 | 4.27 | 99.36 |
計 | 8,250 | 18,388 | 18,271 | 36,959 | 4.27 | 99.36 |
大崎町 | ||||||
上大崎 | 1,907 | 4,266 | 4,295 | 8,561 | 4.48 | 100.68 |
白金猿町 | 236 | 480 | 455 | 935 | 3.96 | 94.79 |
下大崎 | 2,092 | 4,881 | 4,213 | 9,094 | 4.31 | 86.31 |
居木橋 | 1,700 | 3,764 | 3,313 | 7,079 | 4.14 | 88.07 |
谷山 | 853 | 1,998 | 1,643 | 3,641 | 4.08 | 82.23 |
桐ケ谷 | 1,291 | 2,965 | 2,562 | 5,527 | 4.21 | 86.41 |
計 | 8,079 | 18,354 | 16,483 | 34,837 | 4.26 | 89.81 |
平塚村(荏原町) | ||||||
戸越 | 1,069 | 2,418 | 2,288 | 4,706 | 4.40 | 94.62 |
中延 | 253 | 770 | 689 | 1,459 | 5.77 | 89.48 |
小山 | 88 | 279 | 259 | 538 | 6.11 | 92.83 |
上蛇窪 | 79 | 219 | 199 | 418 | 5.29 | 90.87 |
下蛇窪 | 294 | 763 | 638 | 1,401 | 4.61 | 83.62 |
計 | 1,783 | 4,449 | 4,073 | 8,522 | 4.75 | 91.55 |
次に大崎町では下大崎九、〇〇〇、上大崎八、六〇〇と人口が多く、次いで居木橋は七、〇〇〇となっており、明治七年の人口がそれぞれ一九九、五一五、二八五であることから、とくに下大崎の人口の増加が著しかったことがわかるが、これは山手線五反田駅周辺の集落の発展の動向を示している。
平塚村は、戸越の四、七〇六をのぞくと、中延・下蛇窪が一、四〇〇人台、小山・上蛇窪にいたっては四〇〇から五〇〇人であり、当時はまだ全くの農村集落に過ぎなかったことがよくわかる。
また、明治七年の人口は戸越八七九、中延七八八、小山四四四、上蛇窪一九三、下蛇窪三〇五であって、戸越の人口増が大きく、小山・上蛇窪の人口は停滞していたことがわかる。また一世帯あたりの平均人口は、農村地帯だけあって、五人以上が多いのもこの地区の特徴である。
大井町は全町をまとめた統計しか得られないので地域的の比較はできないが、明治七年の人口と較べると八・八倍とかなり高い増加をとげている。
この統計を利用して、品川の人口分布の概要図(ドットの位置は大縮尺地形図上の集落分布をもとに推測でうってあり正確ではない)を作ってみると、当時の人口は、海岸線に連らなる東海道沿いと、大井町・五反田・目黒駅などの駅付近に密集し、内陸部の平塚村付近はまったく人口の疎らな地域であったことを知ることができる。