各年度の国勢調査の統計によって地区ごとの年齢構成について眺めてみる。この年齢構成をみるのにもっとも適当な方法は、いわゆる年齢ピラミッドグラフを作成して、地域・年度で比較する方法であるが、当時の統計の集計が、年齢階層の区分が複雑である上、年度によって区分が異なっていることなどがあってそれが不可能である。そこで、やむなく、幼年人口(〇~十四歳)生産年齢人口(十五~五九歳)老年人口(六〇歳以上)の三段階に区分し、その比率によって考察することにする(都市では農村にくらべ、生産年齢人口が大きいのが特徴であるから従ってこの統計では生産年齢人口の比率の伸びが、都市化の尺度を計る指標となる)。
大正九年の統計グラフをみると、男子の生産年齢人口は品川が六三・八%、大井六四・一、大崎六五・七という数値を示しており、この三町はすでにこの時期には、いわゆる農村にみられるピラミッド型から都市的な「たる型」の年齢構成を暗示しているのに対して、平塚(荏原)は五七・〇であって、前者三町にくらべるとかなり低く、まだ当時は農村型にとどまっていたことが推察される。
次いで、大正十四年についてみると、生産人口が品川・大崎・大井とも大正九年に較べて一%程度の増加をしめすだけで、ほとんど差がみられないのに対し、平塚(荏原)はこの五年間に六四・八と七・八%の増加をとげており、この間の他地域からの大量の人口流入が生産人口を増大させ、もはや都市型へ転じたといってよい。また、男子と女子の比率をこの五年間で比較すると、大崎をのぞく三地区では、生産人口の比率の差が、大正九年に較べて開いており、男子若年層の流入が多かったことをうかがい知ることができる。そして、昭和五年次の旧品川区と旧荏原区とでは、両者にほとんど差異のない状態となっている。
次に、この時代より少し後の時期となるが、昭和十年時の年齢ピラミッドグラフがあるのでこれを眺めてみよう。
これを見ると、旧品川区では十五~十九、二十~二十四歳の若年階層がもっとも多く、明瞭に都市の典型である「たる型」であるのに対し、旧荏原区では最高が〇~四歳で、二〇から三十四歳がかなり多いやや円垂型に近い農村型をしていることがわかる。これは近郊住宅地としての特徴である青壮年層を戸主とし、幼児の多い家族構成が多いことの反映とみられ、若年の単身家族層が比較的少ないことを裏付けている。
次に十四歳から二十四歳までの若年人口をとり出し、全人口に対する比率を出したのが第128表であるが、これをみると、平塚(荏原)が大正九年から大正十四年の間に、男女ともその層が著しく増加していることを知りうる。
年次 | 性別 | 品川町 | 大井町 | 大崎町 | 平塚村 (荏原町) |
---|---|---|---|---|---|
大正9年 | 男 | 23.1 | 22.5 | 25.3 | 19.3 |
女 | 24.3 | 25.5 | 23.2 | 18.8 | |
大正14年 | 男 | 23.6 | 24.9 | 28.3 | 23.8 |
女 | 25.45 | 25.8 | 24.9 | 23.9 | |
昭和5年 | 男 | ― | 27.13 | ― | 25.7 |
女 | ― | 25.76 | ― | 22.7 |