人口の移出入

483 ~ 486

次に第131表によって当時の人口の移出入を品川・荏原の両地区に分けて見ることにする。

第131表 旧品川区域昭和初期の移出入人口(昭和5年)
区別 移出人口 移入人口 移出入の差
-は移入大
実数 (%) 実数 (%)
総数 28,095 100 16,975 100 11,120
旧市郡 22,270 79.3 2,680 15.8 19,590
麹町 4,940 17.6 56 0.3 4,884
神田 1,584 5.6 96 0.6 1,488
日本橋 2,007 7.1 38 0.2 1,969
京橋 2,542 9.1 128 0.7 2,414
7,911 28.2 861 5.1 7,050
麻布 476 1.7 260 1.5 216
赤坂 535 1.9 68 0.4 467
四谷 189 0.7 134 0.8 55
牛込 454 1.6 171 1.0 283
小石川 296 1.0 213 1.2 83
本郷 479 1.7 123 0.7 356
下谷 278 1.0 174 1.0 104
浅草 195 0.7 118 0.7 77
本所 199 0.7 130 0.8 69
深川 185 0.7 110 0.7 75
新市部 4,972 17.7 14,295 84.2 -9,323
目黒 670 2.4 1,617 9.5 -947
荏原 917 3.3 6,516 38.4 -5,599
大森 1,111 3.9 1,602 9.4 -491
蒲田 321 1.1 806 4.7 -485
世田谷 136 0.5 489 2.9 -353
渋谷 747 2.7 1,088 6.4 -341
淀橋 409 1.5 365 2.2 44
中野 85 0.3 272 1.6 -187
杉並 45 0.2 332 2.0 -287
豊島 242 0.9 387 2.3 -145
滝野川 46 0.2 128 0.8 -82
荒川 78 0.3 198 1.2 -120
王子 12 0.1 136 0.8 -124
板橋 70 0.2 106 0.6 -36
足立 22 0.1 52 0.3 -30
向島 22 0.1 44 0.2 -22
城東 30 0.1 104 0.6 -74
葛飾 3 0.01 18 0.1 -15
江戸川 6 0.02 35 0.2 -29

 

旧品川区 移出する人口は約二・八万人であり、当時の人口総数の約一六%が他地区に出むいていたわけである。人口総数のなかには婦人・子供など家庭にとどまっている人口を多く含んでいるのだから、この比率はかなり高い率を示すといってよい。

 その移出先は、旧市域が圧倒的に多く、全体の七九・三%をしめており、とくに隣接する芝区は二八・二%、また都心部の麹町区は一七・六%をしめ、この両区で旧市域流出者の半ば以上となり、それに京橋・日本橋・神田区を含めると六七・六%となって大半がこの五区でしめられる。新市域への移出は一七・七%で極めて少なく、そのうちでは隣接する大森・荏原が三%以上、渋谷が二・七%でこれに次いでいる。

 次に移入についてみると、旧市部からの移入は一五・八%と極めて少なく、新市域に多いが、なかでも荏原が六、五一六人、三八・四%とだんぜん大きく、品川は当時荏原町を大きな労働人口の根拠地としていたことを物語っている。その他では目黒・渋谷・大森など近接地区からがわりあいに多い。

第132表 旧荏原区域 昭和初期の移出入人口(昭和5年)
区別 移出人口 移入人口 移出入の差
-は移入大
実数 (%) 実数 (%)
総数 26,720 100 3,661 100 23,059
旧市郡 16,925 63.3 578 15.8 16,347
麹町 3,875 14.5 15 0.4 3,860
神田 1,121 4.2 19 0.5 1,102
日本橋 1,086 4.1 7 0.2 1,079
京橋 2,001 4.5 23 0.6 1,978
6,593 24.7 178 4.9 6,415
麻布 419 1.6 59 1.6 360
赤坂 397 1.5 43 1.2 354
四谷 130 0.5 33 0.9 97
牛込 285 1.1 28 0.8 257
小石川 175 0.7 38 1.0 137
本郷 213 0.8 38 1.0 175
下谷 207 0.8 28 0.8 179
浅草 138 0.5 30 0.8 108
本所 119 0.5 26 0.7 93
深川 166 0.6 13 0.4 153
新市部 9,470 36.0 3,083 84.2 6,387
目黒 6,516 24.8 917 25.1 5,599
荏原 799 3.0 669 18.3 130
大森 534 2.0 533 14.6 1
蒲田 177 0.7 128 3.5 49
世田谷 154 0.6 185 5.1 -31
渋谷 585 2.2 268 7.3 317
淀橋 250 1.0 70 1.9 180
中野 44 0.2 59 1.6 -15
杉並 30 0.1 81 2.2 -51
豊島 174 0.7 64 1.8 110
滝野川 34 0.1 22 0.6 12
荒川 43 0.2 29 0.8 14
王子 15 0.1 15 0.4 0
板橋 46 0.2 8 0.2 38
足立 17 0.1 12 0.3 5
向島 14 0.05 11 0.3 3
城東 25 0.1 6 0.2 19
葛飾 4 0.01 1 0.03 3
江戸川 9 0.02 5 0.1 4

 

 移出入の差から見ると、旧市域への人口の供給、新地域他区からの人口の受け入れが極めて明瞭であり、新市域では淀橋を除いてすべて移入増である。このことは当時の品川の地域的性格をよく表わしている。すなわち品川が東京外延部の人口を集めて、工業を主体とする生産の場であった一面、都心部へもかなりの人口を供給する住宅地的性格もあわせもつ、二面性を持っていたということである。

 旧荏原区 移出数は約二・七万であって、当時の全人口の約二〇%にあたり、かなり高い比率を示している。そのうち旧市域は六三%であって品川よりその率は低いが、実は新市域に含まれる品川への移出率が二四・八%という高率なので、全体から品川を除くと、旧市域へ通う人口はかなり高かったといえる。この地区も芝・麹町両区に高く、また都心五区に集中していることは品川のそれと似かよっている。移入はその実数も三、六六一人と非常に少なく、隣接する品川・目黒・大森からわずかに移入するだけである。新市域でも移出数の多いことがめだっており、移入が大きいのはわずかに世田谷・中野・杉並であるが、その実数も少ない。

 これらのことからみて、当時の荏原区は明瞭に東京のべッドタウンとしての性格を強く持ち、とくに隣接の品川地区ならびに東京都心部に多数の勤労者を送り出す地区であったことを表わしている(地図統計集三七ページ参照)。