(1) 耕地整理の実施と都市化

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 大正の初めの品川地区は、まだ大井町・大崎町・平塚村などが広い部分にわたって田畑で占められており、東京の近郊農村としての地位から脱していなかった。当時、これらの農村部では、明治四十二年に制定された新しい耕地整理法を適用して、耕地整理を計画する話が各地でとりざたされる状態であった。この耕地整理法とは、政府が音頭をとって、それまでの日本農業の発展に大きな障害となっていた田畑の細分化や、経営耕地の分散、そして灌漑用水の不備などの改良を目的として、農家に共同の組織団体を設けさせ、資金の融通や指導を行なって、農地の区画整理や水利の改良、農地の交換分合などを行ない、農業の生産力を上昇させることを目的とするものであった。

 この品川地区の農村も、地形が台地のなかに谷間の入りまじる複雑な条件のところであり、その田畑は細分化がいちじるしく、農道も迷路状に走り、水利も便の悪いところが多いなど、多くの欠点を持っていた。そこで、この整理法を適用して組合を設立し、耕地整理事業にとりくむ気運が各地で見られ始めていたのである。

 しかし、この事業を行なうには、土地所有者の三分の二以上の人々の同意が必要であるとか、同意者の面積が整理地区のなかに三分の二以上なければならぬとか、いろいろと複雑な規定があり、また、資金も多額を要するため、耕作者間の意見が合わなければ実施にふみきれなかった。そこで、実施の時期は地域的にかなりの開きがあり、じっさいには大正初期から昭和六、七年にかけて、約二〇年間にわたって各地で実施されたのである。