畑を主とする地域の耕地整理事業は、水田地域に較べると比較的遅く始まっている。これは畑地が農業生産の都合上、水田ほど整理を必要とするほどの障害がなかったことや、集落の多くが畑地に立地し、畑のなかに農家が点在するため、宅地や道路もその整理の対象になること、また対象範囲の地積が大きいなど、資金的にも各戸が多大の負担を要することなどが、その理由としてあげられる。しかし、遅く始まったにしても、大部分の地域が、その後この事業の適用をうけており、いずれも昭和七、八年までには、その工事を完了している。
ここでは、この地区での最大の畑作地をもち、また純農村でもあった旧平塚村をとりあげ、その整理事業の経緯をのべることにする。
平塚村での耕地整理事業は、もっとも早い組合の設立が大正七年であるが、他の組合は大正十二、三年に設立されており、その事業もかなりの年月をかけて行なわれ、昭和四年から六、七年になって工事を完了している。
この村では、整理法が施行された当時、有識者の間でその整理の必要を感じて、たびたび話題にはのぼりながら、じっさいには事業を始める決断にはいたらず、そのため、大正四年には東京府の役人から、整理事業の必要性を強く勧奨されたりしている。
ところで、たまたま大正六年に一つの事件がこの村でおこる。それは、この年の六月、この村の中延から上蛇窪・下蛇窪地内の立会川に沿って、当時の桂川電力会社が、五万五〇〇〇ボルトの高圧線を架設する目的で、そのための測量を行ない、杭打ちが進められた。これを見た村民は、高圧線の危険性をおそれるとともに、土地利用上の支障を心配し動揺を来たす。
そこで急遽、有力者の間での協議が行なわれ、その会合で熟議した結果は、早急に耕地整理事業を実施し、その障害となる高圧線の架設を排除するという決議となり、ここに整理事業が始められることになったのである。つまり、高圧線さわぎが整理事業に踏み切らせる契機となったわけである。
このようにして、大正七年三月、一七五名の組合員を擁した平塚村耕地整理組合が設立され、高圧線予定地周辺の一〇一町歩を施行地域として事業が進められた。この事業はその後十数年の長年月にわたって進められ、工事はようやく昭和六年に完了、昭和八年になって組合は解散している。
平塚村における、その他の耕地整理組合には、蛇窪戸越組合(大正十三年設立―二八・四町―昭和六年完了)、平塚町第二組合(大正十二年設立―一四七・二町―昭和四年完了)、上蛇窪組合(大正十二年設立―二二・六町―昭和六年完了)、三谷組合(大正十二年設立―三四町―昭和四年完了)、小山組合(大正十三年設立―三〇・一町)などがあり、いずれも大正十二、三年に設立され、昭和四、五年にほぼ工事を完了している。
ところで、大正十二年というと関東大震災の時にあたり、このころからこの地区には急速に住宅地化ブームが起こり、人口の急増が見られた時期にあたっており、これらの耕地整理事業の真の目的は、すでに農業の基盤整備に名を借りた住宅地化に対応するための区画整理、道路整備におかれていたのである。
これはすでに、大正九年、東京の人口の増大と市街地化の拡大に対応して都市計画法が制定され、当時の大東京地域を東京駅を中心にした半径一六キロメートルの円内と規定しており、この圏内にふくまれていたこの地区では、農民はすでに農業から宅地地主への転進をはかる気持ちを強くもっていたからである。
このように、畑作地域の耕地整理事業も、当初の農業生産発展のための目的が、途中から情勢の変化によって、都市計画のための整備事業という性格に置きかわり、その目的のために短期間に強力に進められたということができるのである。
しかし、この土地整備のおかげで、この地域は、他地区にみられる迷路状の雑然たる市街地化をさけることができ、耕地整理事業が都市化にはたした貢献は、大きなものがあったということができよう。