目蒲・大井町線の設立

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大正十二年に開通した目蒲電鉄は、その設立の契機に東京郊外の住宅地開発事業と深い関係があった。

 大正の初め、実業家の渋沢栄一は、東京の今後の発展に対応して郊外に閑静な都市中上流生活者向きの住宅団地を設ける案をいだき、多くの賛同者を得て、大正七年に、田園都市会社という住宅地建設を目的とする不動産会社を設立する。そして、この会社を、関西でこの種の事業の成功者である阪急の小林一三に依頼するが、小林はのちの東京急行の立役者五島慶太にその経営の主権をあたえ、五島によって鋭意その事業が進められた。

 田園土地会社の住宅開発の主体は、平塚村の一部を含むその北西の玉川・調布・馬込村などであって、大正十年までに各地で一五九万平方メートル(約四八万二〇〇〇坪)の土地を買収して宅地に造成し、洗足地区・大岡山地区・多摩川地区の三地区に分けて大正十一年から分譲を始め、昭和二年にかけて売却した。なかでも多摩川地区は田園調布の名で知られ、その後、高級住宅地として名高くなった分譲地である。

 これらの町造りと並んで、住民の足としての交通機関、電鉄の建設にも力を入れ、同社内に荏原電気鉄道の創立事務所を設けて、大正九年には大井町・調布間の路線認可を、次いで十年には大岡山から目黒にいたる認可、また、路線の権利をもっていた武蔵電鉄(後の東横電鉄)から多摩川・蒲田間の建設権の譲渡もうけ、大正十一年九月には新たに目蒲電鉄株式会社を創立して、急遽鉄道建設に乗り出した。そして、まず蒲田~目黒間が大正十二年に開通をみるとともに、大岡山~大井町間も昭和三年に開通した。