旅客量の増大

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品川の交通幹線網は大正末期から昭和初期にかけて、目蒲線・大井町線・池上線など、郊外電車の開通によって、ほぼ完成し、区内のどの場所からも歩いて最高一五、六分で電車に乗れるという体制をもつようになった。


第92図 昭和初期の五反田駅付近

 その影響もあって、昭和七年この地区が市制に編入されるころになると、区内全域にわたって住宅や工場が立ち並び、名実ともに東京の市街地の一画を形成するようになり、そして国鉄・私鉄ともにその旅客量は急速な増大をみせ、朝、夕のラッシュ時の電車の混雑はいちじるしく、また乗換駅の目黒・五反田・大井町駅の乗降客数も急激に増加し、駅の施設の改築や列車の編成車両の増大などをほどこさざるをえない情勢を呈するにいたった。これを各駅の乗降客数でみると、国電大井町駅で昭和六年約三・四万人であったものが九年には約六・五万人、十二年になると約一一万人へと増加したし、山手線目黒駅も昭和五年約一・五万人が九年には五・四万となり、五反田駅も五年の一・八万人から九年には三・三万人を数えるようになったが、各駅ともその半数は私鉄線からの乗換客であった。そして、山手線は朝夕のラッシュ時には六両編成の電車が四分ごとに発着するようになり、私鉄の各線も昭和十年代に入ると二両編成の車両も走るようになった。

 また、市制編入当時、五反田駅の北、徒歩で数分かかる当時の芝区白金猿町が、終点で乗換客に不便をかけていた市電も、昭和八年には五反田駅前まで延長され、終点が八ッ山橋であった京浜電鉄も大正十四年市電の路線を使って品川駅前の高輪停留所まで乗り入れを行ない、次いで、昭和六年には国鉄品川駅に接して新品川駅を作り、国鉄との乗換えがいたって便利となった。

 そして、時代が昭和六年の満洲事変から昭和十二年の日華事変へと戦時体制に突入するとともに、品川区内での工場数の増加や、東京への人口の集中は、区内外での人口の流動をますます激しくし、鉄道の、区民の足としてその重要性はより強まり、またターミナル駅である目黒・五反田・大井町駅周辺の商店街の殷賑ぶりは前にもまして著しいものとなった。