私鉄電鉄の動向

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大正末から昭和四、五年にかけて全国的にひろまった経済恐慌の影響で、区内を走る私鉄各線は、それぞれ経営の苦しい時期であったが、その間にも鬼才、五島慶太を擁する目蒲電鉄は、宅地開発・学校誘致(大正十三年、大岡山への東京工大、および小山への府立八中新設等)バス・百貨店等多角的な経営を展開し、他社を圧倒しつつあった。そしてついにこの時期になると池上電鉄を昭和九年に吸収合併し、下って、昭和十七年には京浜電鉄をもその傘下におさめ、区内の私鉄はすべて、東急系となるにいたった。

 五島の池上電鉄吸収の経緯はかれの強引さを示す好例として知られている。すなわち目蒲と池上の二線はともに蒲田駅を終点にしており、また区内では隣接して並行して走っている点からいっても、とくに競争関係の激しいものがあり、五島としては池上を合併することによって目蒲電鉄の発展をはかる必要をとくに強く感じていたといえる。そこで、池上電鉄の大株主である川崎財閥の総帥川崎肇を説き、昭和八年七月その持株の八万五〇〇〇株のゆずり受けに成功する。池上電鉄は当時資本金七〇〇万円、総株数一四万株であったから、その瞬間ひとたまりもなく五島の軍門に降ったのであった。


第93図 合併時における両社の比較
(『東京急行電鉄50年史』より)

 当時、池上電鉄の専務をしていた後藤国彦は、一夜にして会社を乗っとられ、悲憤の涙にくれたと伝えられている(『東急五〇年史』一六八ページ)。しかし図にみられるごとく、両者の実力の差は如何ともしがたく、この合併は自然の勢であったと見ることができるのである。

 それに対して京浜電鉄との合併は、戦時下の陸上交通事業調整法にのっとるもので、池上電鉄の場合とは事情を異にしている。従って戦後昭和二十三年には東急から分離独立し、今日の京浜急行電鉄となったのである。

 京浜電鉄は、他の私鉄とは異なって、旧東海道に沿い、古くからの市街地を結ぶ鉄道であり、その設立も明治に遡るとともに経営方針も特異なものをもっていた。とくに、この時期になると沿線は多数の大小工場が立ち並び、それえの通勤客の足の役割りを果たす結果となったが、いっぽう、国鉄東海道線を走る電車線京浜東北線と平行して走る関係からその旅客の争奪競争も激しかった。

 そのため、電車のスピードアップによって対抗すべく、昭和十一年には品川・上大岡(横浜市 昭和十四年からは黄金町間に短縮)間に急行電車の運転を開始するが、これは関東私鉄のなかで通勤用急行運転としては初めての試みであった。区内での急行停車駅は立会川と青物横丁の二駅であったが、ともに乗降客の多い主力駅であった。

 しかし、このように整備されてきた交通機関も、我が国が太平洋戦争に突入し、そして昭和二十年、米軍による東京大空襲によって、各線とも壊滅的な打撃をうけ、やがて終戦を迎えることとなるのである。

    空襲による私鉄の全焼車両数

     目蒲・大井町線   四両

     池上線       二両

     京浜線      一七両