道路網の整備

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品川は昭和七年、市制編入によって東京市の仲間入りをしたのであったが、人口密度・住宅数等においては市域としての資格を充分に持っていた反面、急速無計画的に農村から都市へと転化したため、道路の整備等が遅れ、依然として狭い道が多く、また舗装率なども非常に低かった。

 その上、準戦時時代に入って、多数の工場が設立された上、自動車が新たに重要な輸送機関として登場してきたため、その混乱状態は著しく、また自動車による交通事故が激増するにいたった。そして、道路の整備の重点は国道(第一京浜の拡張第二京浜の新設)・環状線(環状六号)などにおかれ、これら主要幹線が新設あるいは拡張されてきたが、これらの道はしょせん東京と横浜、東京旧市街の外周線としての役割を目的とする道路であって、交通量の増加はかえって区民の危険を増す結果ともなり、マイナス面も強かった。

 とくに、旧荏原区と旧品川区を結ぶ東西に縦断する道路は、環状六号線を除いて、旧来の農道がそのまま使われるような状態であり、それが今日にまでも及んでいるのである。

 自動車の発達は、それに伴い、バスやタクシー業の発展をもたらした。バス路線は昭和初期すでに京浜電鉄・池上電鉄などが営業を始めていたが、昭和十年代になると、ますますその区民の足としての役割を果たすようになり、その主力となったのは市バス・東横バス等であった。