昭和七年発行の東京市公報のなかに「新東京プロフィル」という新市域編入直前の各町を取材した記事がのっている(資一〇九一~一〇九九ページ参照)。その記事の大崎町の項は次のように書き出されている。
「品川町から隣りの大崎町に入ると、いきなり耳がガァンとなる。街自体が巨大な楽器のように我鳴りたてている。低地の大小無数の工場からわき起る音響がワァンと空に響く。
近代工場生産の奏でる力強いリズムだ。大崎は工場街だ。プロレタリアの町だ。粘土でつくりあげたような、見事な肉体が、盛り上って歩いている。……」
まさに、昭和初期の大崎の様子をほうふつさせる文章であるが、これはまた現在の大崎駅付近の姿とさして変わらぬ景観であるといってもよい。
ところで、大正の初めの大崎町は、大崎駅付近にあった明電舎のほか居木橋近くの目黒川沿いに点在する二、三の工場、また桐ケ谷の中原街道沿いにあった星製薬の工場などをのぞいては、目黒川の谷沿いに広がる水田地帯と、北側の台地上の旧大名屋敷、そして西側は平塚村へと広がる畑地帯からなる静かな近郊農村の一つに過ぎなかった。
しかし、大正の四、五年以降になると、この目黒川の河谷には急速に大小多数の工場の設立がみられるようになる。それは、一次世界大戦下の東京の工業の発展によって、東京市内にあった工場が手ぜまな敷地からのがれるため、この地に新工場を設けて移転してくるものをはじめ、芝浦や江東地区の工場の下請工場として、ここに誕生したものが多かったからである。
ここは工業用地としては、目黒川の水運によって海に結ばれ、また大崎駅という貨物駅があり、その上、区画整理の終わっていた水田は、工場敷地としてすぐに転用できる等、当時の立地条件として最適であったことが、この工場地帯化を促進させた要因であったといえよう。
これらの工場群は、地域的には三つのグループに分けられた。
その一つは、目黒川沿いに並んだ出雲ゴム・三和ガラス・石川製陶などの化学・窯業系の工場のほか、小島プレス・門田鉄工などの鉄工場で、これらの工場は原料や製品などが重量物資で、もっぱら目黒川の水運に輸送をたよるために立地した工場群であった。
他のグループは大崎貨物駅を中心に立地した明電舎・園池精機・日本精工などの機械器具・精密工業などの集団であり、第三のグループは谷の北側の旧御成街道沿いに立地した東光電気・大崎電気・東洋製缶・宇都宮製作所などの主として電気・金属製品の工場群であった。
これらの工場はいずれも昭和以降に入っても、この地域での中核的な工場であり、大崎の工場地域としての基礎は、すでに大正期においてできあがっていたといってよい。
昭和期に入ると、これら中核工場の間隙に多数の下請的な小工場が乱立し、又工場の分布は目黒川をさかのぼって上大崎方面にも広がり、その数は一七二工場にも達していた。ここに大崎町は、名実ともに工場街としての姿をもつようになったのである。
これら工場の増加に伴って、付近には勤労者用小住宅や、小売商店等の増加も急ピッチで進み、また、五反田駅に池上線(昭和三年)が通ずると、駅を中心に繁華街・観楽街も急速に成長した。その上、上大崎方面の山手の台地に位置していた旧藩主の大邸宅も、昭和初期の金融恐慌のあふりで、分譲地として開放されることとなり、池田山のような高級住宅地が形成されるに至った。
このため、東京市制編入の昭和七年当時には、すでに大崎町は全町にわたって市街地化を果たし、人口もほとんど飽和の状態に達していたということができよう。
上大崎 | 下大崎 | 桐ケ谷 | 谷山 | 居木橋 | 計 | |
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大正10年 | 14 | 25 | 22 | 13 | 47 | 121 |
11 | 13 | 26 | 22 | 13 | 48 | 122 |
12 | 14 | 25 | 20 | 14 | 45 | 118 |
13 | 12 | 24 | 18 | 13 | 44 | 111 |
14 | 9 | 25 | 17 | 12 | 40 | 103 |
15 | 10 | 34 | 25 | 12 | 42 | 123 |
昭和2年 | 12 | 39 | 27 | 14 | 46 | 138 |
3 | 17 | 42 | 35 | 13 | 54 | 161 |
4 | 13 | 40 | 41 | 10 | 52 | 156 |
5 | 18 | 38 | 45 | 15 | 56 | 172 |