大正時代の前期、平塚村で人家のやや多かったのは、北の大崎町に接する部分と、中原街道沿い、それに大井町駅に近い下蛇窪の付近など、ごく一部に過ぎなかった。そのほかの大部分の地域は、広々とした麦畑や、そさい畑のうち続く田園で、その間を曲りくねった農道が走り、その先にはうつそうとした竹林にかこまれた農家が点々と散在する純農村地帯であった。そして当時の中原街道は、朝方には神田、京橋の青物市場へと野菜を運び、午後には東京市内からの下肥を持ち帰る馬車の往来が絶えない農業用の道路であった。とくに当時の小山部落は村はずれにあり、「小山六六軒」と呼ばれる小さな集落で、これがその後、十年ほどの間に、この地区第一の繁華街を有する住宅地に成長するとは想像すべくもなかった。
それが大正十二年に目蒲線が開通して小山駅ができ、また十三年には駅のすぐ西側に府立八中(現小山台高校)が設置され、そして関東大震災による東京市内住宅の壊滅という条件が重なると、急速に市内通勤者の居住地としての発展を見せ始め、住宅地化への様相を呈し始める。また当時の農家は、すでに区画整理を始める時期に、宅地地主への転進を考えていたのであるから、その変化も早かった。そして、多数の小住宅が軒を並べ、雑然とした家並みの新興住宅地が現出するにいたった。
「新東京プロフィル」はその姿を次のように記している。
家、家、家の拡がりだ。狭い曲りくねった街路を挾んで、無統制に建てられた二間(ま)から五間(ま)くらいの家がごたごたに並んでいる。よくこれで郵便物が届くものだと、いまさら郵便局御苦労様と言いたいくらい。
ギッシリ人家が密集、スクラムを組んでいる。瓦とトタンのカクテール、住宅地色の一見本だ。」……
これを読むと、当時のこの付近が如何に急速に住宅地化され、それが又震災直後の安ぶしんによる中・下級住宅であり、また借家も多くみられたことを物語っている。
このような人口の急増、とくに就学児童の多い家庭の増加によって、学校設備が整わず、昭和六年には荏原町の一〇の小学校のうち一六〇学級、約三、〇〇〇人の生徒が二部授業をうけざるをえない状態であった。このような人口の急増は、小売商業の発展の契機ともなり、小山では駅を中心に中原街道に通ずる農道を中心にして、まず風呂屋をはじめとして、糸屋・ブラシ屋・漬物屋ができ、ついでたちどころに各種の商家がたち始め、それが発展して小山銀座と呼称される商店街の形成をみるにいたった。
これらの商店もまた、市内の震災被災商店や、近隣の都市計画にもとづいて行なわれた道路拡張による移転を余儀なくされた商店など、他からの来住者によって多くは占められていた。
「小山銀座は、目蒲電車の武蔵小山駅通りである。例によって例の如く、ネオンサインと、あくどい看板と、原色ショーウィンドーのゴブラン織りだ。千代紙だ。その中をラジオが唸り蓄音機がひきつるように我鳴る。」……
「新東京プロフィル」
新開地、商店街の殷賑さが想像できる。
この武蔵小山駅周辺のほか、荏原町における住宅地化は、池上線の戸越銀座駅付近および町の南東部を占める蛇窪を核として発展し、その中心にはそれぞれ戸越銀座・蛇窪銀座と称せられる商店街が形成されて、たがいに買物客を競い合っていた。
町の南西部を占める中延地区は、前の三地区に較べると都市化はやや遅れたが、昭和医専・立正女学校(ともに昭和三年)などの学校の新設が行なわれるとともに、住宅も除々に建ち始めた。この地区の住宅は中・上流住宅も多く、その町並みは他の地域に較べて整った姿をもっていた点を特徴としていた。