大井町の都市化は、大崎・荏原両町に較べると早くから進められ、大正の末期にはほぼ市街地化をなしとげている。
町の北部では明治三〇年代、すでに後藤毛織工場をはじめとするいくつかの工場の設置があり、それに伴って周辺の市街地化が始まり、また大正三年の大井町駅の開業によって、都市化に拍車がかけられたからである。
また、町の南西部の台地も、隣村入新井村に古くからあった東海道線大森駅に近く、その西側の山王地区が早くから東京市内在住者の別荘地として開けたところであり、それに隣接した庚塚・出石町などに、大正の初めには、ぼつぼつと住宅が建ち始め、次いで大正十二年の大震災を契機として、大正末年にはほぼ全域にわたって都市化された。当時、この地区への市内からの移転者は中産階級以上の人が多く、落ち着いた屋敷町の姿を呈していた。しかし台地斜面であり、開発が早くて耕地整理も行なわれないままに宅地化されたため、農道がそのまま街路へと転じてしまい、今でも迷路状の狭い街路からなる、雑然とした町並をとどめている。
町の東部に開けていた水田地帯は、耕地整理がなされた後、たちまち工場が進出し、工場地帯へと転じてしまった。