衣食住の変化

510 ~ 511

農村の都市化は、そこに住む人たちの生活様式を大きく変えた。まず住居の面では萱葺(かやぶき)の農家建築が、農家の地主化によって建て替えが進められ、瓦葺の家に漸次変わっていった。防風林として敷地の周囲に植えられていた欅(けやき)の大木の一部を伐採して用材とした家も多く、次第に立派な家が広い敷地の中に建てられていった。しかしその建て替えられた家も、農業を行なう上に必要な土間はなくなったが、間取りは依然として田の字形に四室を配置した方式からは脱却できず、生活様式は農村生活から都市生活に変わっても、建築様式を都市風に急に変えることはできなかったようである。それでも台所・浴室は近代化し、便所も小便器を取りつけた都会風に変わっていったのである。なかには応接間をつくる家もできてきた。食事は、都市化に伴って耕地面積が漸次縮小され、農耕はだんだんやらなくなったので、米は米屋から購入するようになり、そのため大麦が主体のヒキワリ飯は次第に影をひそめ、白米飯を食べる家が次第に多くなった。野菜は殆んどの農家が自家用程度の野菜をつくるだけの畑を残していたので、ここで栽培したものをとって副食の材料とした。味噌や醤油は自家製造する家が多かったが、だんだんに商店から購入するようになっていった。住宅地化に伴って商店の数もふえてくると、魚屋・肉屋・惣菜屋・漬物屋などの食品店がつぎつぎにできてくるようになり、従来の野菜の煮付けに近海物の煮魚・塩干物程度の食生活から、肉類が食膳に登場し、既製の副食が自家製の副食にまじって摂られる食生活に変わっていった。

 衣服の面では洋服の普及が大きな変革をもたらした。外出着は木綿の着物のほかに銘仙など絹の着物も着るようになり、さらに洋服を着る者も次第にふえていった。しかし農耕作業を行なうときに着る仕事着はさほどの変化はなく、最後まではんてん・腹掛・股引がつかわれた。男の下着には従来木綿のシャツがつかわれていたが、このころになるとメリヤスのシャツが盛んにつかわれるように変わった。子供の服装にも洋服が漸次浸透し、昭和に入ると小学校の通学に折襟金ボタンの小倉の通学服を着る者がふえ、これがのちに毛のサージに代わり、絣(かすり)の着物で通学する者は次第に減少していった。

 農家の人たちが靴を履くようになったのも昭和に入ってで、農作業には使われず、洋服の着用と同時に外出用として使われ出した。農作業など屋外労働用としては草鞋(わらじ)から大正の中ころには地下足袋に変わった。このころにも地下足袋が使われ、若い者はこはぜの多い形の良いものをあつらえてつくり、なりを競った。