村落組織の変化

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村落の組織も都市化にしたがって変わっていった。近世のむらの組織を引継いだヤト、そしてその下部機構である組(江戸期の五人組のこと、中延の東では組合、下蛇窪では組と呼んでいた)の組織は、土着の者が大多数を占めていた時期には、共有財産や共有権の保持、相互扶助の面から村民結合の上に不可欠の慣行とされ維持されていた。しかし関東大震災以降、大井地区や荏原地区等の農村部に、市中から多くの人びとが移り住むようになると、これら各地域には移住者の数がだんだん多くなってきて、しまいには土着の者は住民のなかの極く一部を占めるだけの状態になり、土着の者が主体性を持つ旧来の村落組織は次第に崩れ始め、そして土着の者が農業をやめ、地主化することがこれに拍車をかけるのである。

 その端緒となったのは、町村制にもとづいて施行された区制の実施で、ヤトの組織とは別に、これと併行した形で各地域が「区」という形で区割りされ、各区には区長が配置された。大崎町は第一区から第四十四区までの四四区、実施は大正十五年四月、大井町は第一区から第十一区までの一一区、実施は大正十三年二月、荏原町は第一区から第四十七区までの四七区に区分され、大正十五年八月から実施された。区長は町民の選出を経、町長の承認を得てその任に就いており、さらに区長代理者や区長補佐が選任されてこれを補佐した。各区内をいくつかの「部」に分け、各部には正副部長が置かれ、委員が選任された。区も一つの自治組織で、そのしごとは町役場からの通達の連絡、文盲者・多忙者に対する官公庁申請書や届書の代書サービス、入退営者の送迎、貧困者の救済、火災・盗難の予防、災害発生時の被災者の救済、神社の維持と祭典の執行、屎尿・塵芥の処理等であった。区費として徴収したのは汲取費・塵芥処理費で、これはその処理に最も費用を要したからである。耕地面積の縮小と、これに伴う戸数の増加によって、屎尿は肥料という有用物としての機能を失い、無用の廃棄物として有料で処理されるようになり、その手配も区のしごととして行なわれるようになった。

 区の運営について、荏原町の第十六区(下蛇窪)に例をとって見てみると、この区には全部で一四―五名の役員がいて、役員には勤人もいたので役員会は夜開かれたという。都市化が進むにつれて役員のなかに占める移住者の比率が多くなり、その発言力が強くなって、地域においての移住者の立場が強く主張されるようになったといわれている。第二十八区(中延)の場合は、大正の末ころから逓信省の勤務者が、めいめいこの地域に土地を購入して移り住み、これが始まりで漸次移住者が増加し、当初は鎮守の祭礼の寄付、夜警への出動などについて土着の者との違和があったが、比較的早く同化が行なわれ、ここでも役員に移住者が進出したといわれている。このように地域の自治組織の運営に、他の地域からの移住者が参画するようになり、さらにこの区の組織が市郡併合による品川区・荏原区の発足によって町会に移行した。

 区が町会に変わっても、これが行政の末端機構としての役割を果たすようになるのはのちのことで、当初は衛生・交通・警備・祭事・慶弔など社会生活面での機能を主として果たしていた。

 村落組織に併行して結成され、災害予防あるいは災害発生にあたっての自己防衛、そして相互扶助の役割を果たしていたものに義務消防組織がある。明治二十年代にはおおよそ各字ごとに消防組が結成されていたが、大正期に入って消防組が品川町・大井町・平塚村という新しい町村単位に再編成され、組頭(くみがしら)がこれを統括したが、その下部機構はおおよそ旧村単位で組織され、第○部という形で部長が指揮をとり、数名の小頭(こがしら)がさらに細分化された末端組織の指揮にあたった。組員には各戸から一名づつ出てその任に当たったが、自己防衛組織という建前から、制服であるはんてんと股引は自弁で取揃え着用した。


第100図 消防団の訓練(うしろは中延八幡神社の森)

 火災が発生すると組員はたとえ深夜であっても、火災現場に駈けつけて消火活動にあたったが、その代償は出なかった。のちに望楼が設置され冬になると望楼勤務を組員が交替で行なうようになった。夜間には消防小屋に組員が五―六人づつ詰めて代る代る望楼に上って監視をした。これも報酬が出なかったので、小頭が自腹をきって菓子などを買って食べさせたこともあったが、のちには火災等の出動や望楼勤務に手当が支給されるようになった。

 若い衆の組織も明治に入って青年団に編成替えされた。中延の場合、はじめ東(ひがし)・中通り・上(かみ)の各ヤトごとに青年会がつくられ、のち中延で一本にまとまり、東支部・中通り支部・上支部の三支部ができ、さらに明治の末に平塚村青年団となって中延・戸越・小山など各大字ごとに五つの支部が設置された。大井町の場合は大井青年会・鮫浜青年会・大井義勇青年団などの青年団体が大正十一年(一九二二)に合同して大井町青年団となった。当初は青年の親睦団体であったが国の施策によって青年の精神修養・体力増進をはかり、義勇奉公の素質を涵養することを目的とする団体になり、講演会の開催、体育大会や大山などの登山の実施、ラッパ訓練、衛生思想普及のための巡回宣伝、頌徳碑などの手入れ等を行ない、四大節の遙拝式ならびに勅語捧読式などを行なった。しかし日常活動の面では、主人公が病気になった家に手伝いにいったり、災害被災者の援護の募金をしたり、消防組の活動の支援をしたり、夜警をするなど地域社会に密着した仕事をしていた。


第101図 荏原区青年団団報

 青年団成立後も、これとは別に各地区の若い衆組は存続していて、この方は鎮守の祭礼の仕事が主体で、神楽の舞台をつくったり、神酒所を設置したり、祭礼の準備にあたり、さらに祭礼の進行を掌り、その後始末も行なった。