祭礼の変化

515 ~ 516

都市化によって鎮守の祭礼のやり方も大きく変化した。もともと都市と農村の祭のやり方には大きな開きがあったが、農村の市街地化によって、これらの地域の祭礼はだんだん都市型に変わっていった。

 中延の八幡神社の甘酒祭、中延の八幡神社、桐ケ谷の氷川神社のビシャの神事や、大井・戸越の草角力、下蛇窪の芝居などの祭礼行事は都市化に伴って行なわれなくなり、江戸の市中や品川宿で行なわれていたような神輿の渡御や山車を引くというような祭のやり方に変わった。都市化によって人口が多くなってくると、多数の参詣人が出て、農村地域の神社の祭礼にも露店が出、見世物小屋もできるようになった。

 祭礼の期日も農村部の秋祭りの風習が都市化によって夏祭りに変わる傾向がでてきた。中延の八幡神社でも、昭和の初年に従来の九月二十八日に祭礼を行なうしきたりを、五月二十八日に変えた。しかし五月の祭礼は二、三年続けられたが、再び元の九月に戻った。

 農村部の神社で神輿や山車(だし)をつくるようになったのは大正期以降で、大崎地区では下大崎の雉子神社はかなり古く、大正四年(一九一五)に大正天皇の即位を記念して鳳輦(ほうれん)渡御を開始し、以来氏子各地区で神輿や山車をつくった。神輿や山車が農村部に広まったのは昭和に入って町会が成立してからで、戸越でも昭和に入って各町会ごとに神輿や山車がつくられるようになったが、つくった順序はおおよそ神輿が先で、神輿ができるとそのあとで山車がつくられたといわれている。中延では中通(なかどお)りのヤトが最も早く神輿をつくっており、町会成立以前につくられたといわれている。同じ中延でも隣の東(ひがし)のヤトはかなり遅く、区制のしかれた二六区の時期も、降って町会である清和会がつくられていた時期も神輿はなく、東中延三丁目町会の時代に入ってはじめてつくられたといわれている。このように同じ地域でもつくった時期にかなりの差があったようである。

 神酒(みき)所も都市部の祭礼に設けられるもので、農村部では元々なかった。大崎では大正の初めに既に設けられていたが、葭簀(よしず)張りの仮小屋であったといわれている。