婚礼・葬儀など冠婚葬祭のやり方も漸次変わっていった。これには行政的な指導もあったようで、大正八年三月、平塚村では第一次大戦後、大戦中の好景気の反動として不景気の到来することが予想されるという趣意で、慶弔儀式に関する方法の改良について村民がつぎのように励行の申合せをしている。
一、葬式会葬者への飲食物を供するを廃する事。出棺に際し子供に菓子を与へる事は、風教上宜しからず、香料又は供物を供する者に菓子・食物を呈供せざる事。
二、香料受納の謝礼物改良する事。旧慣により物を贈呈し来りしも、之を改良して代ふるに他の物品を以てする(晒木綿・風呂敷・半紙・茶)。
三、婚礼其他慶弔は各自の階級に応ずべしと雖も、之が土地の習慣となるが為、虚栄をさけ成るべく質素を旨とし、無益の消費を省き互に注意すべき事。
このように従来婚礼や葬儀には村落全戸の者が出席あるいは会葬し、そのとき全員が祝金や香典を出すというしきたりがあり、このとき一人一人に飲食を振舞い、そして品物を返しとして贈るという風習があるため、これを行なうときは多額の経費を要することになった。また出棺のさい集まった子供たちに菓子を与える風習があった。このような葬儀会葬者に食事を出すことや、子供に菓子を与えること、香典返しに比較的高価な物が贈られることなど、必要以上に出費を要するものが、この都市化の時期に虚礼廃止の提唱に従って自粛され、そして外来者の移住による村落結合の意識の稀薄化によって、次第に行なわれなくなってゆくのである。
区内の各村落には念仏講あるいは題目講(日蓮宗寺院の檀徒のみ)が結成されていて、葬儀のさいにはそれぞれの講に何名かの月番が定められているので、この月番が集まって葬儀の実際の遂行にあたり、さらに墓の穴掘りなどの仕事を受持った。
葬儀の終了後、死者を出した家ではこの人たちをよんで酒や料理を出して慰労をした。このことに対し平塚村では
葬送の際、講中において相互援助するを便宜なりとする部落は、従来の通り存続し之に改善をなすものとす。葬送人夫買上執行しつつある部落は多数の援助を要せざるに依り、親戚又は近隣相互の援助となし、講中は出棺一時間前に集合し会葬後直に解散すること(以下略)。
という申合せをして、埋葬にあたっては葬送人夫買上げ、つまり穴掘り人夫を雇うことを奨励し、多数の講中の者が必要以上に労力を提供し、これらの者を大勢饗応することの煩わしさを避けるよう勧奨し、また講中全員が出棺一時間前に集合し、そして葬儀終了後直ち散会することを勧め、これらの者全員に食事を出す風習の廃止を計っている。昭和に入ると葬儀の準備・執行を葬儀屋に頼む家もでてきた。このころ葬儀屋は品川町に店を出していた。
婚礼の場合も「嫁入り」の当日「婿入り」と称し、花婿がその両親や親戚の者と一緒に嫁方にゆき、嫁方ではその親戚一同も集まってこれを迎え、そこで「立ち振舞」と称して祝宴を行ない、その日の夕方「嫁入り」を行なったが、大正の末ころからこの「婿入り」も行なわれなくなった。「婿入り」の祝宴と、「嫁入り」後に行なわれる披露宴の二つの宴席が一日のうちに設けられる煩わしさと、経費の無駄を避け簡略化されたものである。