サラリーマンの生活

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職工と並んで大正期に品川・大井・大崎・荏原などの地域で、目立ってふえたのが、いわゆるサラリーマンといわれる事務や営業・銀行員・教師・官吏などのホワイトカラーであった。サラリーマンがふえたのは、日本の経済が独占資本主義と規定される発展段階に達し、巨大資本の会社や銀行・デパートなどの集中を背景としていた。大正六年(一九一七)から翌年に臨時教育会議が、中級労働力の質の向上と量の拡大をはかるために、中等・高等教育の拡充・改善を答申した。それによって大正七~八年に中学令・高等学校令・大学令の改正・制定が行なわれ、多数の私立大学が設立され、大学として格付けされた。この地域では三田の慶応義塾に対する評価が押しなべて高く、かなり教育熱心であったといわれているが、こういった学校の拡充は、教員そのものの人員をふやすとともに、サラリーマン層を産業界や社会の要請に応じて生みだしていくことにもなった。

 米騒動や関東大震災、それに労働争議・無産政党の活発化などもあって警視庁の機構がふくれ上がり、それだけ国家の官吏もふえていった。東京市在住の有業人口中、サラリーマン層は、明治四十一年(一九〇八)五~六%だったものが、大正九年(一九二〇)には二一・四%にふくれ上がった。現品川区地域は京浜東北線・山手線さらに私鉄の京浜急行・池上線・目蒲線・大井町線など交通機関が極めて発達していたことも一因となって、郊外に住宅を求めるサラリーマン層の恰好の住宅地としても発展していった。関東大震災による荏原町を中心とする急激な宅地化・人口増大は、この過程を一挙に押し進めたものにほかならない。

 サラリーマンたちの生活は、朝の通勤電車からはじまる。大井町駅へ電車がつくと駅員がかけていって、つぎつぎと掛けがねをはずしてドアーをあける。鉄道院大井工場などへ勤める人が降りると、都心へ向かうサラリーマンが乗りこむ。発車前には、また駅員が、かけがねをかける。ラッシュアワーといっても、ほとんどの人たちが必ずといってよいほど革の鞄を手にし、冬はソフト帽子を、夏はカンカン帽をかぶっていた。これがサラリーマンのスタイルだった。戦後は鞄や帽子はラッシュでどこかえとんでしまう、当時はそれだけ電車も混雑しなかったわけで、まだまだ、のんびりしていた。大正十五年(一九二六)九月、京浜東北線の通勤電車が、はじめてエアコンプレッサーによる自動開閉式にかわって、駅員の手数が大いにはぶけた。

 しかし、サラリーマンの生活は楽ではなかった。収入も職工層と大差はなかった。たとえば権田保之助「労働者及び小額俸給生活者の家計状態比較」によれば大正八年(一九一九)の調査で労働者家計世帯主収入六三円二〇銭に対して、俸給者家計では七三円四四銭で月一〇円ほど多いが、労働者家計が辛うじて黒字であるのに、俸給者はわずかだが赤字であり、貯金引き出しや借金に対する依存度は俸給者の方が高い。それだけ一面では「小額俸給生活者家計の労働者家計に比してより不健実なるを語る」とされた。むろんサラリーマンでは借りる相手もあったし、貯金もある程度はできたことも示していた(中鉢正美『解説 家計調査と生活研究』三〇ページ)。事実、このころ、ボーナスは、サラリーマン層に限られ、職工にはほとんど支給されず、盆暮に手拭一本・足袋一足といったところから、せいぜい賃金一ヵ月か十日分もでればよい方だった。サラリーマンには好・不況、会社の業況や個人の勤務状況によって大きな変動があったが、よいときには数ヵ月分も支給された。品川区地域では一五円出せば、現在の3DK程度の一戸建てで、たいてい庭もあるという家が借りられたから、職工との一〇円の格差も無視できない意味をもっていた。背広を着て、ワイシャツにネクタイ、革靴をはいて、門のある庭つきの家に住めるという違いが、そこからでてきた。職工はなっぱ服といわれる作業着を通勤途上でも着用していた。

 しかし、与謝野晶子が、サラリーマンを「中流の名を以て呼ばれる貧民階級」(『東京朝日新聞』)と呼んだように生活の中身は、火の車だった。かれらの大部分は安月給で、熟練労働者の賃金よりたいてい低い水準におかれていた。その年、三越の大学出初任給は三〇円、臨時手当六割がついて合計四八円だった。さきの権田保之助の調査対象の平均月収と比較するとかなり安いが、それでも「さすがは三井系とうらやましがられた」のである。

 ただ、かれらの生活パターンは、従来の農民や商人とかなり変化していた。生活費支出はきまりきった月給のなかでまかなわねばならなかったから、そこにはおのずから生活は、計画的にならざるをえなかった。これは職工層も含めて同じだった。生活のすべてを現金でまかなわなければならない、それだけ社会的にも厳しい状態におかれていたといえよう。仕事も、気分が向けば野良に出かけていくといった按配にはいかなかった。いやでも出勤しなければならなかった。それだけに帰路の一ぱいが大きな憩いの場となった。現品川区地域においても飲み屋がふえ、酒やビールの消費量がふえていった。