職工やサラリーマンに代表される民衆の生活苦に対して、具体的に改善していこうとする意欲の一つの現われが、大正期の終わりになって設立された消費組合であった(第137表参照)。地域よりも工場や労働組合を基盤に生まれた消費組合がほとんどであり、それも組合員はそれぞれ一〇〇~二〇〇人程度のものであって、この地域全体からみるならば極くひとにぎりのものでしかなかった。消費組合の力は弱かったが、消費者の立場から自分の利益を守るために、現実的な活動を行なうという意味合から、無視できないものだった。
団体名 | 設立年月 | 所在地 | 組合員 | 役員 | 母体組合 | 所属上部団体 | 備考 | 年現在 |
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南効共働社 | 大正十二年二月 | 大井森前町五三八五 | 一五〇 | 日本・関東・産業 | 払込出資金七五〇円 | 大正十二年 | ||
荏原購買組合 | 大正十三年十二月 | 解散 | 大正十三年 | |||||
共愛購買組合(消費組合) | 大正十四年七月二八日 | 中延三一五 | 二三三 | 東京鉄工大崎支部連合 | 消費・産業・全国・東京 | 払込出資金 二、九八一・一九円 昭和十一年まで記録あり、事業漸増 |
昭和六年 | |
大崎消費組合 | 大正十四年八月二〇日 | 北品川袖ケ崎四九四 | 一〇九 | 東京鉄工大崎支部連合 | 関東消費組合連盟 | 払込出資金 一、三二七円 |
昭和四年 | |
荏原共働社 | 大正十五年 | 南品川三ツ木槍ケ崎八六四 | 二三〇 | 同 二、七二一円 | 昭和五年 | |||
共栄社 | 昭和四年十月二〇日 | 大井五三八五 | 産業・全国 | |||||
品川購買組合 | 西品川四三八 | 二〇五 | 逓友大崎・品川・荏原 | 総同盟系 | 同 二、七二〇・五〇円 | 昭和六年 | ||
相互購買利用組合 | 昭和十二年七月 | 九一八 | 関東電球硝子労組、出版産業運輸労組 | 昭和十三年 | ||||
東京教員消費組合 | 戸越町二九〇 |
(備考) 一、所属加盟上部団体
日本=日本無産者消費組合連盟(取引・連絡も含む)、関東=関東消費組合連盟、消費=消費組合連合会、
産業=産業組合中央会、東京=東京府消費組合共同精米所、全消=全国消費組合協会、全国=全国購買組合連合会
二、山崎逸治『日本消費組合運動史』昭和七年刊日本評論社、『大原労働年鑑』より作成。
現品川区地域では、おそらく最初の消費組合だったとみられる南郊共働社は、大正十二年(一九二三)二月設立された。日本光学株式会社の職工を主力に、大森瓦斯電気の職工および一般市民の少数が参加したものであった。大井町森前町五三八五に事務所を設置し、組合員一五〇名であった。会社はこれに対抗するために会社所属の大購買部をつくり、安売りを行なうとともに、月給の七~八割まで会社内だけで通用する金券を発行し、販売を強化していた。
大正十五年(一九二六)に、日本光学で労働争議が起こったときに、南郊共働社は、この争議を全面的に応援して、充分その力を発揮した。とくに、争議の発生に際して、会社側は購買部の金券発行を停止したため、それまで購買部を利用していた職工たちは、いわば一種の経済封鎖をうけるはめになった。さっそく、南郊共働社は争議団応援の方策をたてるために役員会を開いて、次のような決議をした。
一、争議団中の南郊共働社組合員に対しては出資と同額までの貸売超過を認める(平時は貸売は出資金を限度としていた)
一、組合員外の争議団員に対しては現金売の場合に限り、原価支給(但し米・味噌・醤油・薪炭)
一、争議団は物品を伝票によって組合から取ることができる。
その上、南郊共働社の常務者は争議団本部の借入れや炊出しの応援に奔走した。争議団が行商隊を組織するに当たって、共働社はその商品を仕入れたが、この行商を実行する前に争議が解決した。争議は二週間で労働者側の勝利に終ったが、それ以来日本光学の職工で、南郊共働社に加入する者が激増し、南郊共働社の基礎が確立したといわれている。日本光学争議の起こった大正十五年は、大正八年(一九一九年)以来の労働争議の頻発した年であり、共同印刷や日本楽器などの大争議のあった年であった。日本光学も総同盟第一次分裂以来、左派の評議会に走り、東京鉄工大崎連合とは対立した仲であった。南郊共働社が加盟していた関東消費組合連盟は、物資の原価配給を行なうとともに、南郊共働社を通じて八〇円の資金をカンパし、争議団を積極的に応援した。消費組合は労働者の輜重隊というスローガンを文字通り実行したわけである(山崎逸治著『日本消費組合運動史』)。
大正十四年八月二十日、評議会系と対立する総同盟系の拠点であった東京鉄工大崎支部を基盤に地域に居住する「日本労働総同盟所属組合員にして独立の生計を営む者」を組合員として設立された。事務所を北品川袖ケ崎四九四に置き、組合員一一八名(大正十五年六月十日現在)、東京鉄工組合大崎第六支部の購買部の事業を引継いだものであった。しかし、組合員の利用度は低く、しかも仕入も困難なため、関東消費組合連盟に加盟し、そこから仕入れを行なっていた(総同盟機関紙『労働』昭和二年一月号)。この連盟は評議会系であり、消費組合の面では統一されていたともいえよう(協調会『最近の社会運動』五〇三ページ)。