昭和初年における農業の衰退

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昭和六年十一月、つまり東京市の隣接五郡の市域内編入が実現して品川区・荏原区が誕生した昭和七年十月からおよそ一年前、東京市臨時市域拡張部の調査した結果によれば、大正九年以降の面積一万坪当りの各町村別人口密度は次表の通りであった。荏原町の急増が特徴的であるが、品川町の人口増加の伸びなやみも「是レ本町ハ早クヨリ交通ノ要衡(衝)トシテ開発サレ、西部及北部ノ台地ハ高燥ナル住宅地トシテ富豪ノ邸宅多ク、目黒川沿岸及東南部ハ概シテ低地ニシテ大小工場連立シ」(『荏原郡品川町現状調査』資四五一)たためであったといわれている。

第138表 人口密度(面積1万坪当り)と国勢調査人口
町村名 大正9年 大正14年 昭和5年 昭和5年(国勢調査)人口
品川町 453 (100) 587 (130) 615 (135) 55,639
大井町 303 (100) 485 (160) 580 (191) 70,080
大崎町 362 (100) 504 (139) 560 (154) 53,780
荏原町 49 (100) 412 (841) 753 (1,531) 132,107

 (注) 市城拡張調査資料『荏原郡各町村現状調査』による。

 さて、かかる宅地化や工場進出のなかで農業生産の動向をみると、大井町の場合「由来農ヲ本領トシ、所謂大井胡蘿蔔(大根のこと)ノ良質ヲ誇リタル本町モ……現今耕地面積一万七千八百七坪、総面積ノ一分四厘ニ過ギズ、従ツテ農産物トシテ数フルニ足ルモノナク、穀類・蔬菜ノ栽培ハ絶無ノ状況ナリ、然レドモ本町ハ温室栽培盛ニシテ、マスクメロン及薔薇・カーネーション・ダリヤノ産額五十八万余円……養鶏ニヨリ産卵五万六千余円」(『荏原郡大井町現状調査』資四五四)という状態であった。さらに、一番農村的と考えられる荏原町の場合も「本町ハ十数年前ハ殆ド畑地ナリシモ、最近住宅ノ増加ニ因リ耕地面積激減シ、昭和五年度ニ於テハ僅一九・七町(三分三厘)ヲ存スルノミ……米ノ収穫高九石、其ノ価額一六二円、麦ノ収穫高五〇石、其ノ価額三八四円」(『荏原郡荏原町現状調査』資四五五)という状態であった。まさに、急速な都市化の進行というべきであろう。さきにもふれたように、第一次大戦期の耕地整理の結果、たとえば、明治四十五年三月十八日に設立された品川町耕地整理組合は大正六年八月解散、大正二年四月二日新設の品川・大崎町耕地整理組合は、ひとまず大正七年十一月二十九日に換地処分を終え、昭和二年十一月五日に解散している(『品川町史』下巻、八二二ページ)のであって、それに加えて、目蒲線・大井町線の開通、あるいは関東大震災の影響もあって、農業もまた急激に衰退を余儀なくされたとみなければならない。同時に、まさに都市化に対応した近郊農村として、大正末期から「園芸本位の集約農業」化を荏原郡農会も指導してきたし(『目黒区史』)、「穀百姓」・「園芸百姓」という分化も生ずることとなる(「古老聴取座談会記録」による)。振返って、おそらく、荏原中延付近の大正期の農事暦と考えられようが、一~三月は大根・ネギ・カブ・コマツナ・ホウレンソウ、四~五月はミズナ・コマツナ・イチゴ・タケノコ(「古老聴取座談会」における中延四丁目宮野初五郎氏談)などがあげられており、六月ごろはタケノコ・オオムギ・ジャガイモ・ネギ・トウナス・キウリ、七~九月、スイカ・ナシウリ・アカウリ・キウリ・ナス・ジャガイモ、十~十二月、サツマイモ・コカブ・ダイコンなどを作付している(『地図統計集』参照)。この場合、さきの大井町の温室マスクメロンに対して、イチゴといっても露地イチゴが普通であったという。少数の精農は二月ごろからガラス張りの温室による、イチゴ・キウリ・ナスの促成栽培を試みている(同じく旗の台二丁目芳根次朗氏談)。もちろん、温室といっても、設備投資が大変で、メロンにしても大井町では一〇軒ぐらいの農家が栽培したものの、献上ないしは自家消費が多かったともいわれている(同じく大井七丁目榎本兼吉氏談)もちろん、大井町の場合には半農半漁の農家もいたといわれ、作付面積は一~二反ともいわれている。またかかる農産物は、午前一~二時に起き、大井町の場合は八ツ山・三田・京橋へ、中延付近からは五反田・権之助坂・白金台町・三田・京橋というコースを通って出荷されたという(同じく、中延三丁目三田銓太郎氏談、中延四丁目漆原保氏談)。


第104図 大井町農会献上品のメロン

 さらに、宅地化の進展・増大、結局は同じことであるが耕地の減少ということと絡みあいながら、洪水・溢水の多かった目黒川埋立ても大正十二年度から七ヵ年の継続事業で、埋立費をふくめて九九六万余の事業費で開始、関東大震災の発生もあって、結局昭和十二年に完成し、区域内の工業にも多大の影響を与えている(『目黒区史』)。