昭和初期における毛織物工業の苦況

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第一次大戦後の毛織物工業は、二つの受難にみまわれたという。大正九年の反動恐慌による打撃がその一であり、さらに関東大震災による被害がその二であった。とくに、関東大震災の発生により、東京毛織大井工場は大破し、全滅した王子工場などと合算すると、東京毛織株式会社全体の被害額は九〇〇万円にも達したという(『日本毛織三十年史』)。これが原因で、いわゆる金融恐慌期の昭和二年三月には、東京毛織株式会社と毛斯綸紡織株式会社(明治二十九年一月創立大正八年七月には、増資して資本金は一、五〇〇万円)が、双方、一二五〇万円に減資整理の上、合併して合同毛織株式会社を設立した(『羊毛工業資料』)。さらに昭和四年秋には、大井町発展の原動力ともなった後藤恕作が大正七年十月に創立した後藤毛織が破綻している。すでに、関東大震災で後藤毛織東京工場は全滅し、従来の欠損と合わせて約六〇〇万円の損失を計上、結局昭和四年には、同社岐阜工場は二〇〇万円の社債担保として、日本興業銀行の手に移り、昭和四年十二月に新設されたばかりの共同毛織株式会社の賃借経営に委ねられたのである。ついで、さきの合同毛織株式会社も、業績不良の評判が加わって、原毛輸入業者の信用をうけることができず、三〇〇万円の原毛手形の切替が不能となってしまったのである。これに対する大倉組の門野重九郎氏らの斡旋も功を奏せず、結局日本毛織株式会社との合併案も決裂して、合同毛織は全工場を休止、職工をも解雇した。関東大震災後、大井町の東京工場をすでに加古川工場に移していた日本毛織ではあったが、この合同毛織救済のため、昭和四年十二月から賃借経営を試みたが、翌昭和五年三月には、合同毛織株式会社の大株主たちの計画で、あたらしく資本主五〇〇万円の新興毛織株式会社を設立して、その合同毛織諸工場の経営にあたらせることとした。この間の業況は全く判明していないが、同社は昭和十一年八月には毛織工業株式会社と改称、昭和十六年九月に鐘淵工業に吸収合併されたものと思われる(『日本毛織三十年史』『羊毛工業資料』)。

第142表 昭和初期の工業生産額(昭和6年)
町名 大井町 町名 大崎町
生産額 生産額 比率 生産額 生産額 比率
製品名 製品名
千円 千円
諸機械 8,675 22.6 綿織メリヤス 882,851 5.9
度量衡器 3,500 9.1 金属類 1,321,696 8.7
ペイント 2,500 6.5 機械器具 8,774,401 58.8
電線絶縁材料 2,250 5.8 セメント・電球・硝子 392,116 2.6
印刷 1,855 4.8 製薬・ゴム加工品 2,857,921 19.2
電球 1,505 3.9 食料品 194,138 1.3
医療薬品 7,550 19.7 その他 498,313 3.3
ゴム製品 2,500 6.5
乾電池 2,250 5.8
製缶 1,950 5.0
サッシュ 1,550 4.0
その他 2,310 6.0
38,395 100 14,92,436 100

 注)『荏原郡各町村現状調査』より作成。