明電舎と東京電気

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関東大震災後、金融恐慌・昭和恐慌と深刻な不況の連続で電気機械製造業も大打撃をうけた。産業界の電力消費は減って、全国的に電力は供給過剰となり、電気機械の需要も極度に減少したため、製造業者間の受註競争も激しく、欠損の累積は深まるばかりであった。それは、一方で操業度も低下してゆくし、他方で受註価格が下落するばかりだったからである。たとえば、第一次大戦をむかえた大正中期の電力不足時代に計画された大水力発電所は、この時期に移ると相ついで完成し、電力過剰に拍車をかける始末であった。それゆえ、昭和期に入ってからの水力発電所計画はほとんどなく、明電舎としては、昭和四年に狩野川電力(静岡県田方郡)湯ケ島発電所に一、〇〇〇KVA水車発電機を二台、さらに昭和五年と八年に南朝鮮水力電気雲岩発電所に三、二〇〇KVA水車発電機を、それぞれ一台ずつ納入している。ともに鉱山製煉用であった。しかも、電力過剰のため、一般物価の下落に反して電力料金は変らなかったという。

 このためディーゼルエンジン発電機で、この事態を克服すべく、昭和四年以降、エンジン直結交流発電機を製作している。さらに、本邦紡績業の展開に対応して、大正末期まで紡績機械は集団運転されていたものが、精紡機から単独運転が採用され始め、昭和七年以降の新設紡績工場では全面的に単独運転が実施されてゆくこととなった。このため高性能の各種紡績機械用電動機が製作されてゆく。なお、鉄鋼圧延用のミル用電動機をはじめ、高周波発電機や無線通信用直流発電機も製作されている。

 以上の主要なものだけに限ってみても、合理化と設計ならびに工作技術の改良が試みられて、いわば明電舎に限らず不況期を通じて電気機械の設計・製造技術は向上していったといえよう(『明電舎技術史』)。

 明電舎に対して、東京電気は、まさに躍進時代に入ったといえる。第一は家庭用電気機械器具や配線材料の転売を通じて、戦前における家庭電化の促進をはかった。とくに芝浦製作所とG=E社からの代理輸入を昭和二年八月から始めている。もちろん、戦後の現在とちがって、家電製品といっても電気料金が高かったため、その利用範囲は極めて限られていた。とはいえ、周知の芝浦製作所製「電気扇」(扇風機のこと)や自動電気時計を始め、自動電気皿洗機・自動電気研磨機・電気真空掃除機・自動電気冷蔵機など、外国製のものはハイカラというか、四〇年以上経過した現在でも全く通用するものばかりであった。第二は、電球工場の拡充であった。電球という製品の特殊性と関東大震災の経験により、新鋭の川崎・小倉両工場に伍して、大井工場も、電球生産に全力をあげてゆくのである。すでに、その由来をのべた「マツダ」電球の生産は、さらに「国産電球運動」と重なってますます安定してゆくこととなるが、昭和六年十一月末には「マツダ」は全製品の登録商標となった。同じ昭和六年末の金輸出再禁止以後、景気の回復に伴って、東京電気は多角経営の端緒をつかみ、昭和十三年十二月十三日に実現する芝浦製作所との合併の前提条件を形づくってゆくのである(『東京電気株式会社五十年史』)。

 なお、かかる電球生産の拡大に関連して、昭和二年のアメリカGE社のタングステン電球の特許権の期間満了、ならびに昭和六年および同七年におけるイギリスおよびアメリカにおけるガス入電球の特許権の期間満了にともない、昭和七年以降、金輸出再禁止による対外為替の暴落も加わり、電球輸出の発展時代が到来する。この日本製電球の急激な海外進出に対して、各国から激しい反響と抵抗が生れてくることとなる(『日本電球工業史』)。

 これに対処すべく、前述の東京電気を中心とする独占的電機資本は、当初日本電球協会(昭和八年九月二十日設立)および日本電球工業組合連合会(同年十月二十日設立)と対立関係にあったが、結局これに加盟してゆく。他方で、翌昭和九年九月十八日に創立された日本電球輸出組合の自発的な、かつ排他的な輸出統制に対処すべく、クリスマス電球製造を中心とした中小企業の業者団体ともいうべき関東電球工業組合が結成されてくることとなるのである(資四五八)。


第105図 大崎駅より見た工場街の現況