日本精工・園池製作所・荏原製作所の動向

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大正十五年十一月に創立満十周年を迎えた日本精工は、昭和二年の金融恐慌以降苦境に陥りつつも、従来製品の主販売機関であった山武商会に対する売掛金回収の困難に直面して少なからず打撃をうけた。昭和五年十一月末の総売掛債権二一万円のうち、その七割が山武商会に固定してしまっていた。創業以来経営者を同じくし、姉妹会社ともいうべき関係にあっただけに深刻であった。結局、山武商会との製品販売代理解除にふみ切ったものの、経営事情は好転しなかった。このようななかで、鋼球・軸受の自主生産着手ないしは目標化のなかで、販売面についても、全国枢要都市に出張所を設置し、「国産品」愛護の方針に呼応した唯一の国産軸受専業に移行しつつあったといえよう(『日本精工五十年史』)。

 大正十四年八月ガスメーターの製作に成功して、大阪ガス・神戸ガスとの取引が増大して、大阪工場を設置した園池製作所では、ガスメーターの量産化に全力をあげた。昭和三年には五、〇〇〇台に達し、当時の経済不況を表現した工具製品の売行き低調を補うのに役立っている。昭和四年に三井物産の紹介もあり、やっと東京ガスとの取引が成功し、以後熱海ガス・岡山ガス・高知ガス・鹿児島ガス・盛岡ガス等からも注文が舞いこむようになった。ところで、創立者でもあり、出資者・協同者であった社長園田武彦の野望は航空機製造にあったといわれるが、航空機研究の展開に対応して、「風洞天秤」の注文がもちこまれた。この天秤のデーターによる技術の改良が、太平洋戦争下の「零戦」や「隼」の製作技術にくみこまれているらしい。なお、かかる不況に直面して、十五銀行からの格別の援助をうけて、昭和四年八月には、一旦減資した上で不良資産の整理を実行している(前掲『園池製作所』)。

 ポンプ製造の荏原製作所も、この時期には不況に苦吟しつつ「ターボ冷凍機」や「ディーゼルトラクター」の試作に挑んでおり、昭和八年には売上げも上昇に向い、大場工場内に第四工場が建設されることとなった(『水と空気』)。

 なお、日本精工と兄弟会社である日本酸素のことにふれておけば、昭和六年四月公布の重要産業統制法の指定をうけ、各地方共同販売の実現に努めた結果(高橋直行『酸素一路』)、酸素製造業界全体が一時小康状態を保ちえたが、同じころ、昭和肥料川崎肥料(現在昭和電工)の副生酸素が出現して問題となった。結局、これが対策としては、前述した東洋酸素荏原工場を一時操業停止し、共販比率の範囲内で、前述の昭和肥料の副生酸素を引取り販売することとしたのである。すでに昭和五年四月には、日本酸素大阪工場で液体酸素の製造に着手している。この液体酸素は、酸素の大量輸送と輸送費軽減、さらに危険防止の点でも画期的であった。

 これに関連して、大崎工場の設備が古くから非能率となってきたため、保土ケ谷曹達(現在の保土谷化学)製造の液体酸素を購入し、これを蒸発器で気化充填することとし、昭和七年十一月二日にはその設備を完成している。しかし、予想通りの生産単価の低下を実現しえず、経営合理化のために、昭和九年八月十一日限り大崎工場を廃止し、その機械器具類は東京市内亀戸・蒲田、さらに広島の各工場へ移設している。この後が現在の「日本酸素記念館」である(『日本酸素五十年史』、東洋酸素『四十年の歩み』)。