日本光学と三菱航空機株式会社東京製作所の設立

541 ~ 544

ワシントン会議による軍縮・関東大震災・さらに労働争議の発生と、それに加えて恐慌の連続は、日本光学の経営内容を悪化せしめたことはいうまでもない。かくて大正十五年五月の経営陣の交替により、資本金三〇〇万円の二四〇万円への減資、人員整理と徹底的な整理が断行された。昭和三年から翌四年にかけて借金返済が完了したといわれ、さきに第143表にかかげたように収益の増大はこの整理の結果といえよう。

 ところで、長岡半太郎・柴田雄次両博士を顧問として出発した大井工場内の光学硝子研究所は、大正十年九月上旬、当時の国勢院の軍需工業研究奨励金の交付をえて、益々規模を大にして実地と現場との併行研究を進めたといわれている。このようにして昭和二年三月までの四年間に小型坩堝による試験的熔解は三〇〇回、一坩堝による製造的大熔解を七一回も繰返し重ねたという。それまではすべて、かかる光学硝子はドイツのショット社からの輸入に仰いでいたのである。さらにこれに加えて、関係技術者たちの海外視察研究が続行されていった。そして、ちょうど経営的危機を乗り切った日本光学に対して、昭和三年ごろから陸海軍からの光学兵器の新規受註がふえ、また光学兵器以外の平和産業品としての理化学機械も、ようやく世間の注目と信用をうけるようになったのである。

 このような状況のなかで、昭和五年七月、従来の大井第二工場の東側の伊東胡蝶園所有地一、八〇〇坪を買収して、ここに芝・大井両工場の機能を合体した新しい理想的な工場を建設しようとしたのである。翌昭和六年十二月地鎮祭をおこない、昭和七年一月に着工して、翌昭和八年七月に新工場が完成した。しかも、これと併行して、航空写真機あるいは写真鏡の必要が痛感され、昭和七年ごろから、やっとカメラの研究が成果をあげるようになり、航空写真機や望遠写真機の設計製作が本格的になってゆくのである。さらに、かかる試行の連続のなかなら、焦点距離の系列をもったレンズのシリーズができ、ここに昭和七年「ニッコー」という名称がつけられたのである。しかしながら、日本光学がカメラとレンズを製作する、いわゆる総合一貫の光学メーカーになるのには、もう少し時間が必要であった(『日本光学工業株式会社二十五年史』『五十年の歩み』)。

 ところで、当時としては光学兵器に重点をおかざるをえなかった日本光学が、大正末期の苦況をのり切った昭和三年三月二十八日から四月七日まで、衆議院議員選挙をめぐる公休日のとり方ないしは賃銀支払いをめぐって、三田豊岡工場と大井工場に争議が発生した。両工場ともに、出勤退場時間の短縮、退職手当の増額、解雇手当の制定、健康保険法の改正など一〇項目の要求をかかげて四〇日ないし四一日間にわたって、豊岡工場は一七五名、大井工場は一六五名の労働者の参加をみてストライキがたたかわれたことも注目しておきたい(内務省社会局労働部『昭和五年労働運動年報』)。

 さて、大正五年十一月に創立した三菱造船株式会社は、翌年に自動車部門に進出を試み、反動恐慌時の大正九年三月には三菱商事との半額共同出資で、資本金一〇万円の「大手商会」を麹町永楽町二丁目六番地(現在の千代田区丸ノ内二丁目)に創立した。アメリカ製輸入車と「三菱A型」乗用自動車の販売が目的であった。さらに、自動車販売のサービスと車体製作・修理・組立をおこなうため、芝浦岸壁に近い芝区日之出町七番地四号(現港区芝浦)に敷地約六〇〇坪、建坪二五〇坪の芝浦工場を設けた。だが、大戦後の反動恐慌の嵐の前に、大手商会の販売成績はふるわず、大正十一年二月には解散の羽目におちいってしまった。

 しかし、これとひきかえに、この芝浦工場は、三菱内燃機株式会社名古屋製作所芝浦分工場として発足することとなった。これが東京製作所の濫觴である。関東大震災では災害をまぬがれたが、以後各種多様の修理車の持込みで多忙となり、一躍有名となった。首都復興事業の進むなかで、東京市からの依頼で撒水車とダンプをそれぞれ七〇台づつつくったという。こえて大正十四年には、陸軍から航空機用始動車・通信車・補給車の注文があり、海軍からは4kg演習用爆弾体、艦政本部からは爆弾投下器の注文があった。さらに、イギリス・ヴィッカース会社の戦車を参考にして、陸軍技術本部も戦車製作にのり出し、完成したのが昭和四年秋であったといわれている。

 たまたま前述した日本光学が苦況で呻吟していて、同社大井工場増築予定地約六、〇〇〇坪と木造建物一棟をうりたいというので、三菱内燃機は二〇万円で買収した。すでに、昭和三年五月には、三菱内燃機は三菱航空機株式会社と改称、芝浦工場と大井町高森前五六〇〇番地にできた大井工場とを合わせて「東京製作所」としたのである。この大井工場で最初に製造を始めた戦車は「イ号車」とよばれ、昭和五年十一月に完成し、民間第一号であった。後輪駆動・全製軌・全製甲・砲塔付で、一〇五馬力、水冷ガソリン機関付で、最高時速二七キロで製作費は一〇万円であった。

 なお、エンジンは東京瓦斯電工(現いすゞ自動車)、防弾鋼板は日本製鋼所室蘭工場、溶接は、神戸・長崎両造船所から援助をうけたといわれている。昭和八年十二月からははやくもこのイ号戦車の量産に入っている(三菱重工業株式会社『東京製作所五十年史』)。