昭和初期の真崎大和鉛筆

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昭和二年三月から四月にかけて金融恐慌が勃発したときに、二ヵ月間にわたる争議が発生した。たんに当時の近藤賢二社長の排斥というのではなくて、近藤社長が断行した経営の合理化なり、人員整理に対する反発とみるべきであろう。このような厳しい合理化の進展のなかで技術的にも、軸板用材の開発、油芯の改良、ラッカー塗装の開始など、ドイツのニュールンベルグに留学した桜井三千三の矢つぎ早の技術改良の結果によるところが大きかったという。そして、さらに、政府による産業合理化の一環で国産品愛用運動が展開されたのに対応して、「三菱」マークの知名度をたかめてゆき、昭和八年からは「特約代理店制度」を導入して、全国を七つの販売区域にわけたが、これらは戦後の三菱鉛筆の販売会社になってゆくのである。これも、近藤賢二社長が往年ライジング=サン石油株式会社(現在の日本石油株式会社)の創立に関係した折の、販売網拡大の妙案だったといわれている(『鉛筆とともに八十年』)。