大正時代に入って徐々に進行してきたこの地区の都市化は、関東大震災による旧東京市内の壊減を契機として急激な進展を見せたが、とくに純農村地域であった荏原地区(旧平塚村)では、たまたま私鉄電車の開通による交通の便の確保とあいまって、その戸数や人口の増加は驚異的な情況を呈した。
そのため、これらの新住民の日常生活物資を供給するための小売商業の発達も著しく、各地に駅を中心として発達した新興商店街がたちまちにして誕生した。その代表的な例が、目蒲線の武蔵小山、池上線の戸越銀座、田園都市線(旧大井線)の蛇窪銀座などの商店街である。とくに武蔵小山の商店街はその発達がもっとも早く、また今日においても品川区の商店街のなかで群を抜いた存在を示しているので、ここでは武蔵小山をとりあげて、その発達の跡を追うこととしよう。
明治期から大正大震災までの武蔵小山(現在の西小山も含む)すなわち当時の平塚村大字小山は、立会川の谷をはさんで位置した三谷(さんや)・池ノ谷の小字からなる約六〇戸ほどの、野菜作り専門の純農村に過ぎなかった。そして、各農家は立会川沿いのわずかな水田と、大は二町歩、小は五、六反歩の畑を耕やし、春はたけのこ、夏はキウリ・ナス・スイカ・マクワウリ、そして冬には大根など四季にわたって野菜を育て、それを朝早く荷車に積んで三、四時間の道のりを歩いて市内の京橋浜町の青物市場へ売り、夕方には芝・三田などの住宅から野菜作りに欠くことのできぬ人糞尿を運んで帰る生活が続けられていた。
だが、このおだやかな中に激しい労働に追いまくられる生活を続けていた農村にも、大東京の発展による都市化の波が、大震災前すでに間接的ではあるが押し寄せつつあった。
それは大正七年、東京西郊の都市化に積極的な役割を果たした田園土地会社の設立、目蒲線の開設計画、ならびに大正九年に制定された都市計画法であった(都市化の進展の項参照四八六ページ)。田園土地会社は直接小山の土地の買収は行なわなかったが、すぐそれに隣接する旧碑衾村・馬込村一帯の農地を買い集め、洗足地区住宅地の建設を始めた。この地域には池ノ谷の農家の所有する耕地もあり、それが買収の対象となり、一部の農家は耕地を失う代りに若干の土地代金を得たのである。また、目蒲線の開設計画は当時の部落の地主、上層農家をして宅地地主化への転進の意欲を刺激し、農地整理を表看板にした住宅地化への区画整理事業がいっぽうでは進められた。
また、それに追いうちをかけるように施行された都市計画法による大東京建設の具体的建設プランは、地主・上層農だけでなく、この地区の全農民をして農家から都会人(宅地地主および勤人や商店主)への転進をいやおうなく認めさす結果となった。そして、すでに大正十年ころには将来の住宅地化による地価の高騰を予想して、売り急ぐ農家の土地を安く買いしめる東京市内在住の資産家も少なくなかった(『地図統計集』三九ページ昭和初期中延南部における町外者の土地所有分布参照)。
例えば池ノ谷の旧家E家は二町歩の農地をもつ大農であったが、遊び人であった長男が土地を売り急ぎ、大正十一年にはその農地の大半を千住の接骨医として有名であった名倉堂に坪五円という価格で売り渡している。
このように「小山部落の都市化」というオペラは大正十一年までの静かで不気味な序曲をかなでた後、大正十二年に入っていよいよその幕が切って落されたのであった。それは、その年の三月の目蒲線の開通による小山駅(大正十三年武蔵小山と改称)の開業、ならびに九月一日東京市内を灰燼に帰せしめた関東大震災の勃発である。
荏原台地の上に位置した小山部落は、大地震にも無きずであった。
そして、市内で焼け出された人々は、郊外に住宅を求めて殺到した。小山部落は目蒲線で目黒駅から数分、そして目黒駅からは山手線・市電を利用して都心へ数十分で通える交通至便の地へと変わっていた。
このような有利な交通地位をもった小山が住宅地化することは必然の結果であった。小山部落の農家のなかにはただちに土地を貸し、また貸家を建て、宅地地主へと変貌をとげるものも少なくなかった。
そして、大正末年になると、小山はすでに駅を中心にしてマッチ箱のように小さく、当時「文化住宅」と称せられる(じっさいは安普請でそまつな中下級サラリーマンの寝ぐら)家々が立ち並び、また、今の私設アパートにあたる四軒長屋、そして竹林にかこまれた茅ぶきの農家からなる複雑な景観を呈するようになった。
このような勤労者住宅の増加は、それらの人々に日常生活品を供給する商業の発達をうながさずにはおかない。いちばん人通りの多い、駅に通ずる道には、これら東京人を相手とする商店が続々と立ち始めた。
それらの商店の多くは、震災被災者か、旧市内から人口の動きにつれて移って来た大商店の分店などで、地元の農家が商店に転業するものは比較的少なかった。
商店の種類は呉服屋をはじめ、下駄屋・餅菓子屋・床屋・納豆屋等々、そして風呂屋など日常生活に必要な業種のほとんどがでそろったが、なかでも多かったのは呉服屋であった。呉服屋・布地屋には北品川の尾張屋の分店をはじめ、吉田屋・伊勢茂などが主要な店であったが、今日の武蔵小山の商店街の衣料品の強さは、すでに大正末期のこの商店街の草創期からの伝統であったということができよう(本巻高度成長期の品川、産業構造の変化商業の動向九一〇ページ参照)。
そして、いったん商店街が形成されると、その品物の安さ、豊富なことを伝え聞いた主婦達が、目黒・五反田をはじめ、大岡山・自由ケ丘辺からも目蒲線、田園都市線(旧大井町線)を利用して集まるようになり、昭和七年新東京市制編入当時にはすでに郊外の一商業中心地としての地位を確保するにいたったのである。
次に、この武蔵小山とともに生き続けた人二人、地元の農家出身・商店経営――の半生記を簡単に述べて、小山の素描の一端を示すことにしよう。