大震災後の種々の事情から、東京市域の拡張は市側からも隣接町村からも要望されるにいたった。しかしこの問題は明治以来の東京都制ならびに特別市制問題とからみあっており、複雑な経過をたどることになった。
東京市は明治二十二年の市制町村制の施行により大阪・京都とともに特別市制を適用された。その結果東京市は独立の市長・助役を置かずに市長の職は府知事がこれにあたった。これは東京市の自治を害うものであるとして当初から特別市制撤廃の要望が強かった。この要望はその後議会や関係官庁にたいする請願となり、ついに明治三十一年には特別市制撤廃の法案が議会を通過し、同年十月一日東京市は自治体として独立した。
しかし首都として政治的にも経済的にも重要な位置をしめる東京が、五万、三万の地方小都市と同一に一般市制によって律せられることは必ずしも合理的ではなく、より強力な自治体たらしめようとする声は早くからあがっていた。こうして特別市制撤廃前の明治二十九年の第九議会には都制法案が提出され、以来政府も東京市も首都に見あった自治体の制度を模索してきた。大正十二年に加藤友三郎内閣は臨時大都市制度調査会を設け、内務大臣を会長に貴・衆両院議員・内務省官吏・東京府知事・東京市長・学識者等を委員として調査を行ない、都制案が作成された。しかしこれは震災突発で実現しなかった。その後昭和五年浜口内閣も大都市制度調査会を設置して調査・研究にあたったが政変のために中途で挫折した。
他方、東京市および市会でも、その実現のためにしばしば調査が行なわれた。大正八年後藤新平市長は臨時調査課を設けて、都制の実現ないし郊外町村の併合に備えて、隣接町村の調査を行ない、その結果を『東京市郊外町村編入調査書』(大正十五年刊)として公刊した。また市会議員桐嶋像一は都制問題に取組み、独力調査を続けて『東京市接続町村調査資料』を印刷して各所に頒布した。また東京市政調査会も独自に調査をすすめ、大正十一年に『帝都の制度に関する調査資料』と題したきわめて詳細な調査書を刊行した。これらはいずれも近郊町村の併合のための調査という性格をもったものであった。しかし震災復興に忙殺された市当局は、この問題を具体化する余裕もなく時日を経過した。
その後帝都復興事業の完成が近づくにつれ、前述の市と隣接町村の関係はいよいよ密接となり、しかも両者の格差が大きくなるにつれ、その矛盾も顕在化してきた。こうしたなかで市郡併合はますます現実問題として緊急を要するものとなってきたのであった。昭和四年五月の定例市会は全員によって特別市制に関する調査委員会設置を決議してこれを可決した。同委員会はこの年十二月、意見報告を行ない、このなかで都制案の推進を決議するとともに、その要綱につぎの四点を掲げた。
一、地域ハ現在ノ儘トスルコト
一、市長ハ公選トスルコト
一、財政ヲ独立スルコト
一、交通・衛生・消防・建築等ノ警察権ヲ獲得スルコト
この決議は市郡併合という困難な事業をさけて、ひたすら都制の実現をめざしたものであった。これにより同委員会は都制に関する実行委員会に組織がえされ、引続き関係機関への働きかけを行なうことになった、しかし内務省は大都市制度調査会の審議未了を口実にこれを実行する意向を示さなかった。