市会の調査と「臨時市域拡張部」の設置

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この時期、東京市長に就任(昭和四年四月)した堀切善次郎は隣接町村併合問題に熱意を示し、各種の基本調査をすすめた。堀切市長の在任はわずか一年であったが、その後昭和五年五月市長となった永田秀次郎も前任者の仕事を継承、鋭意調査に努力を続けた。翌六年四月たまたま京都市が隣接一市二六ヵ町村の併合を実現した。それに先だち大阪・名古屋・神戸の各市も市域の拡張を行なった。これらの大都市の市域拡張は東京市に大きな刺激を与えた。この機会に都制に関する実行委員会は名古屋・大阪・京都の合併事情と合併後の実情視察を行なった。この視察は委員に市郡合併の必要を痛感せしめた。

 関西視察から帰った都制に関する実行委員会は、ついで隣接五郡の視察を行なった。後に述べるように、この視察のなかで郡部の代表はきわめて率直に併合に関する意見を表明した。この五郡視察による委員会と郡部代表の懇談を契機に合併問題は急速に具体性を帯びてきた。

 六月三十日、都制に関する実行委員会は、市会に二つの建議案を提出し、満場一致でこれを可決した。第一の建議は「隣接町村合併ニ関スル建議」で、市郡合併を刻下の急務であるとし、その処置を都制に関する実行委員会に一任されたいというものであった。その理由書は隣接町村を「本市ヲ核心トシテ渾然タル有機的一体ヲ成シ相互ニ同一緊密ナル関係ニ在」るとして、この「隣接町村ヲ合併シ名実共ニ帝都ノ威容ヲ整ヘ共存共栄ノ実ヲ挙クルハ刻下ノ緊要事ナリ」と述べている。二年前、地域は現在のままとして都制の実現をはかるとした同委員会の立場からは大きな前進であった。

 しかし第二の建議「隣接町村合併促進ニ関スル建議」では、合併区域を明記することなく、合併促進のために必要な機関の設置を建議したにとどまった。これは委員会内部に五郡八二ヵ町村全域を合併せよという意見と、隣接一八ヵ町ないし二二ヵ町の編入を有利とする二つの意見の対立があったからである。全般的な合併気運の盛上がりにもかかわらずなお前途は多難であった。

 市会の建議をうけて東京市の理事者も正式態度をうちだし、八月に「臨時市域拡張部」を新設、処務規定を決定するとともに部の首脳部人事を決定した。そして早くも九月には都制に関する実行委員会にたいして右のような合併区域に関する四案六種を立案して提出した。

 第一案(イ)

 現在ノ市域ニ左記接境十八町ヲ併セタル区域

  荏原郡 品川町・大崎町

   (豊多摩・北豊島・南葛飾・南足立各郡、町村は省略。以下同様)

 第一案(ロ)

  第一案(イ)ニ更ニ左記準接境四町ヲ加ヘタル区域

  荏原郡 目黒町

 第二案

 旧東京中央卸売市場区域、即チ前記第一案(ロ)ニ更ニ左記七町ヲ加ヘタル区域

  荏原郡 ナシ

 第三案

  第二案中ヨリ南足立郡千住町ヲ除キタル二十八町ニ更ニ左記五町竝南足立郡江北村・西新井町・千住町・綾瀬村及南葛飾郡南綾瀬町ノ各一部(荒川放水路内側)ヲ加ヘタル区域

  荏原郡 大森町・入新井町・大井町・荏原町

 第四案(イ)

  隣接五郡全部(八十二町村)ヲ包括スル区域

 第四案(ロ)

  第四案(イ)ニ更ニ北多摩郡砧・千歳ノ両村ヲ加ヘタル東京都市計画区域

(東京市役所編『東京市域拡張史』)

 この臨時市域拡張部の設置と合併区域の立案は各方面に大きな反響をよびおこした。