荏原郡市町村合併連合協議会の決定をうけて各町会は合併問題にたいする各町の正式態度を相ついで決定した。まず十一月二十六日に大井町が、ついで大崎町が十二月三日に、十二月七日には荏原町がそれぞれ市町村合併を決議した。少しおくれて十二月十二日品川町が決議した(各決議および理由書は『品川区史』資料編参照のこと)。
これらの主旨に基づき荏原郡市町村合併連合協議会は十二月十日左の決議を行ない、翌十一日東京府知事・東京市長にその促進方を要望した。
決議
荏原郡各町村会(品川・大森・玉川ノ三ヵ町村未決議)ハ東京市トノ合併ヲ適当ナリト認メ其ノ実現ヲ期スルノ意志ヲ表示セリ依テ本会ハ東京市長及関係監督官庁ニ対シ急速之カ実現ヲ要望ス
その理由書は、「今ヤ東京市ト本郡各町村トノ関係ハ、単ナル団体相互ノ利害ニ止ラス、住民ノ実生活ハ全ク不可分ト謂フヘシ、最近合併ノ機運頓ニ進展シ来レル亦洵ニ故ナキニアラザルナリ」とし、「合併ヲ促進スルハ本郡民永遠ノ福祉ヲ増進シ延テ帝都百年ノ長計ヲ樹ツル所以ナリト信ス」と述べ、郡部住民の立場から合併の必要を力説した。
翌日の永田市長と郡代表の会見で、名和委員長は品川・大森・玉川の併合未決定町村について決議のおくれている理由を述べ、これらの町村もまもなく合併賛成の決議をする予定であることを説明した。これにたいし永田市長は、現在のような熱烈な雰囲気のなかで、ぜひ合併を実現したいと考えるが、区域については一八ヵ町村ないし八二ヵ町村のうちもっとも可能性の大きいものを考えたいと述べ、拡張区域の範囲については明言を避けた。しかし両者とも市郡併合に関しては東京府・内務省に決定権のあることを認め、これに強く働きかけることの必要を確認した。ついで一行は府庁に出頭し、牛塚知事を訪問してさきの決議書を提出し、その実現を強く要望した。
市郡合併にたいする五郡一致の行動が展開されつつあるとき、市内においてもさまざまの動きが起こっていた。市域拡張の推進母胎である東京市会の都制実行委員会は「臨時市域拡張部」設置後、九回にわたる委員会で、併合による負担関係、市会議員定員問題などにつき慎重な検討を如えた。その結果十二月十八日東京市会は「市域拡張に関する意見書」を議決し、これを東京府知事ならびに内務大臣に提出した。そのなかで、市会は合併問題が緊急を要する重要問題であることを力説したが、なお合併区域については「帝都たるの地位と本市並に隣接町村の状勢に照らし適当なる区域」と述べて、五郡全体との合併希望を明言することを避けたのであった。
この背景には、市会内部における有力な反対派の存在と一五区会議長会の反対運動があった。
当時の東京市会中有力な政派に市民会・民政会・更新会の三派があった。三派中、市民会は市民の負担増加を理由に五郡併合に反対し、一八ヵ町ないし二二ヵ町の小併合を主張し、無産党も同じ理由からこれに賛成した。これに対し民政会・更新会は五郡併合を主張、中立倶楽部の大半はこれを支援した。反対派の理由は、一つには震災後の復興事業で市民は過重負担に耐えてようやく道路・上下水道・学校等の都市的諸施設の完備につとめてきたのに、五郡併合となれば、これらの施設が整備されない郡部のために、さらに長期の負担を背負わなければならないということ、二つには、市会議員の定員割合によっては郡部の利害におされる危険があるという心配であった。
東京市区会議長会の反対論も、これと同じ理由によるものであった。これらの反対はこれ以後翌七年五月、五郡併合が決定される直前まで強力に展開された。一五区会中、協議会で反対決議をした区は日本橋・京橋・芝・麻布・赤坂・四谷・下谷・浅草・深川の九区を数え、条件付賛成区は牛込・小石川・本所の三区、態度表明のない区が麹町・神田・本郷の三区であったことをみても、その反対論がいかに根強いものであったかがうかがわれる。
こうした強力な反対勢力の存在と、東京市会の意見書が合併区域を明示しなかったことは、郡部に大きな不安を抱かせた。そこで五郡八二ヵ町村はさらに同時併合の目的を貫くために、各郡町村長会長に府会議員で、豊多摩市郡合併交渉委員長の朝倉虎治郎を発起人として、昭和七年一月、東京市郡併合期成同盟会を結成し、東京市をはじめ関係当局に強力な働きかけを行なった。
こうして合併問題は合併区域をめぐってなお両者の一致をみないまま、時日は経過していった。