ところで市町村合併は本来市制町村制により、その権限は府県の上申に基づき内務大臣が認可してはじめて実現しうる制度となっていた。その意味では市郡併合問題について東京府の態度は重要な位置をしめていた。
昭和六年合併問題が具体化した時点では、東京府はこれを静観する態度を持した。その後東京市に臨時市域拡張部が設置され、五郡八二ヵ町村中荏原郡玉川村・南葛飾郡吾嬬町を除く八〇ヵ村からそれぞれ合併決議または意見書が府知事宛に提出されるにいたって、東京府としてもこの問題に積極的に取組まざるをえなくなってきた。その前後の昭和六年十月に府会の東京府都制常置委員会も「東京都制ヲ実現スルニ付キ重要ナル先駆ヲ為スモノ」との観点から、市郡併合を促進すべきであるとの決議を行なった。また五郡選出の府会議員もそれぞれ併合促進の運動を展開した。
昭和七年一月、藤沼庄平が東京府知事に任命されると、この問題解決を自分の使命として積極的に取組むことを決意した。藤沼府知事は市内反対勢力の存在を考慮しながらも、五郡を分割して併合するならば町村内に種々の問題が起こり、市域拡張そのものが実行不可能になると考え、結局五郡八二ヵ町村の区域をもって合併することに決断した。
かくて内務省と前折衝を重ねたうえ、四月七日内務次官官邸において河原田稼吉次官、藤沼府知事、永田市長をはじめ関係機関官吏出席して協議会を開き、種々意見を交換し、大体において三者の意見一致を見た。さらに実施時期に関しては準備期間は短いが一日も早く実施する方がよいとの判断から、東京市の自治記念日(明治三十一年十月一日)特別市制が撤廃され自治体として独立した日である十月一日をもって行なうこととした。
昭和七年五月五日、藤沼府知事は内務大臣宛てに東京市への五郡八二ヵ町村編入と、その理由書を上申して承認を求めた。
昭和七年五月五日 東京府知事 藤沼庄平
内務大臣 鈴木喜三郎閣下
東京市の境界変更に関する件
東京市近郊左記八十二箇町村を廃して其の区域を同市に編入し昭和七年十月一日より施行致度候条御承認相成候様致度事由を具し此段上申候也
記(略)
この時添付された「市域拡張を必要とする理由」はきわめて広翰な文書であるが、十項目にわたって合併の必要を述べている。今その項目のみを掲げておこう(全文『品川町史』下巻所収)。
(一) 東京市の区域を住民の社会的経済的及政治的生活の実際領域と合致せしめ、以て統合的自治を構成し、関係住民の共同利益の伸張を図るの要あり。
(二) 隣接町村の急激なる人口の増加並に都市化に鑑み必要あり。
(三) 不在市民(注)に市政参与の機会を与ふるの要あり(注・不在市民とは郊外居住者にして市内に通勤するものを云い、当時約七五万人と推定されていた)。
(四) 財政能力の拡充と経費の合理化を図り、以て都市的施設の遂行を容易ならしむる要あり。
(五) 帝都の安寧秩序と市民生活の福祉安康を増進するの要あり。
(六) 都市計画等に基く大都市構築の基本的諸施設の統制を容易ならしめ、其の目的達成を期するの要あり。
(七) 公営事業の綜合的計画を樹立し其の普及び改善を期するの要あり、
(イ)交通運輸事業 (ロ)上水道事業 (ハ)下水道事業
(八) 各種施設の統制を図り、其の普及改善を期するの要あり。
(イ)教育行政 (ロ)社会事業 (ハ)保健衛生
(九) 産業開発振興上必要なり。
(十) 都制実施促進上必要なり。
また「市域拡張を隣接五郡八十二ヵ町村とする理由」では七項にわたって、その適当なるを説明している。
一、「大東京」は既に有機的一体を構成し利害得失全く相一致せること。
二、五郡合併は輿論なりと認む。
三、町村組合の区域と一致し、または之を包括吸収し其の処分に支障を生ぜざること。
四、衆議院議員及府会議員選挙区との関係に支障を生ぜざること。
五、残存町村の処置困難なり。
六、都制実施に備ふる要あること。
七、三多摩問題
以上の東京府知事の上申に接した内務大臣は、これを審議の上五月十日内諾を与えた。そこで藤沼府知事は翌十一日関係市町村会にたいして次の諮問を発した。
町村会ヘノ諮問書
(各通)荏原郡品川町会外八十一ヵ町村会
昭和七年十月一日ヨリ其町(村)ヲ廃シ東京市ニ編入シ之ニ伴フ財産処分左ノ通定メムトス仍テ其ノ会ノ意見ヲ諮フ
右昭和七年五月十七日迄ニ答申スヘシ
昭和七年五月十一日
東京府知事 藤沼庄平
記
其ノ町(村)有財産及負債ハ昭和七年九月三十日ノ現在ニ基キ左ノ通帰属セシメムトス
(一) 新ニ市ト為ル区域ニ学区ヲ設ケ左記財産ハ之ヲ其町(村)ノ区域ノ属スル学区ニ帰属ス
1. 小学校実業補習学校及教員住宅ニ関スル財産
2. 小学校基本財産奨学資金其他小学校実業補習学校ニ関スル各種ノ財産
(二) 新ニ市ト為ル区域ニ区ヲ設ケ左記財産ハ之ヲ其ノ町(村)ノ区域ノ属スル区ニ帰属ス
1. 公会堂(之ニ類スルモノヲ含ム)ニ関スル財産及公会堂建設資金
2. 罹災救助資金其ノ他ノ救恤ニ関スル各種ノ財産
(三) 前二項以外ノ財産及負債ハ全部東京市ニ帰属ス
(『東京市域拡張史』)
これと同時に「区設置ニ関スル市会ヘノ諮問書」が発せられたが、これは新区設置の項で改めて述べよう。
この諮問をうけ各町会はさっそく協議会を開いて決定するところとなった。
品川町会は五月十六日、町政参与漆昌巌・村林彦之も出席して開かれ、「本町ヲ廃シ其ノ区域ヲ東京市ニ編入シ、之ニ伴フ財産処分ノ件ハ御諮問ノ通リ異存無之」と決定した。
同日、荏原町・大崎町・大井町もそれぞれ同趣旨の決定を行なうとともに、各町ともそれぞれ意見書をもって合併に伴う諸措置について希望条項を提出した。これらの意見書については、品川町は独自の形式で、荏原・大崎・大井三町村はほぼ同一形式をとっているので、品川と三町村をわけて次に紹介しておく。
品川町意見書
一、東京市域拡張ニ際シテハ、必ズ区役所ヲ本町ニ定ムルコト(理由―省略)。
二、区ノ名称ハ必ズ「品川」ヲ呼称スルコト(理由―省略)。
三、(前略)品川町・大崎町・大井町地域ヲ以テ品川区トナス原案ハ、今後如何ナル反対アルトモ何等ノ変更ヲ加フルコトナク、決定施行セラルベキコト。
四、合併ニ際シテハ字名並ニ地番ノ改正・変更ヲ適正ナラシムルコト。
五、従来本町ニ於テ補助シ来レル各種団体ニ対シテハ、合併後ト雖モ引続キ補助スルコト。
六、(略)
七、既設交通機関タル電車・乗合自動車等ニ関シテハ、急速ニ之ガ延長ヲ企画サレ、将来運転系統ノ改善ヲ図リ、絶対ニ廃止等ヲナサザルコト。
八、合併ニ際シテハ速カニ東京府埋立地ノ開発ヲ図リ、品川町区域ヲ以テ将来ノ大東京港ノ要部タラシメ、コノ地域ニ埠頭ヲ建設スルコト。
九、合併ニ際シテハ東京府埋立地ノ一部ヲシテ公園地域タラシメ、該地域ノ繁栄策トナスト同時ニ、市民ノ保健施設ヲ完備スルコト。
一〇、曩ニ東京府ヨリ本町ニ諮問アリタル東京市第三号埋立地ノ境界ニ関シテハ、本町ニ於テハ明治四年東京府知事境界査定ニヨル、丑ノ五分ヲ以テ該境界トナス旨答申セル通リ、コレヲ変更セザルコト。
一一、一二・一三(略)
一四、瓦斯・水道・電話料金・郵便集配度数ハ現市内ト同一トスルコト。
一五~二〇(略)
(『品川区史』下巻)
大崎・大井・荏原の三町意見書は若干異なった希望条項も含まれているが、ほぼ同文である。おそらく荏原郡の統一した希望条項であったと推定される。
一、行政事務ト其ノ区画
(1) 本郡ノ抱擁スル人口其ノ他ノ関係ヨリ観察スルトキハ六区ノ行政区画トスルヲ適当ト認ム。此ノ機会ニ於テ錯綜セル町村界ニ依ラス行政区界ヲ整理画然タラシムルコト。
(2) 区役所庁舎ノ完備ニ至ル迄ハ勿論交通機関ノ充実迄ハ現在ノ本町役場ヲ出張所トシテ従来ノ如ク事務ヲ取扱ヒ住民ノ便益ヲ図ラレタシ。
(3) 合併後新市会議員選出ニ至ル迄ノ間ニ於テ本郡ニ関係アル重要事件ハ市会ニ提案前従前ノ関係町長ニ意見ヲ徴セラレタシ。
④ 議員ノ定数ハ必ス人口ノ比率ニ依ルコト。
〔この項のうち(3)(4)は品川町会意見書も一二、一三で同一意見を述べている。大崎意見書のみはこの外に新しい区割りについて意見を述べているが後述〕
二、教育施設
① 教育ニ関スル施設及経費ノ負担ハ現市ノ各区ト同一ノ取扱トナシ其ノ間何等ノ等差ナカラシムコト(品川意見=二〇)。
(2) 二部教授ハ絶対ニ之ヲ避クルコト。
三、施設事業ノ継承
本町ニ於テ現ニ施設スル事業並ニ現ニ着手若クハ計画中ノ事業ハ本町ノ実情ニ照シ住民福利増進ノ為最モ緊要施設ナレハ必ス継承セラレタシ殊ニ交通機関ノ充実上水道ノ公営下水道ノ完成及電気瓦斯料金ノ均一ヲ実現スルコト。
四、人事行政ノ継承
(1) 本町ニ於ケル名誉職並同待遇者ヲ優遇スルノ方法ヲ講セラレタシ(品川意見書=一五、一六)
(2) 現ニ本町ニ在職スル有給吏員以下傭員ニ至ル迄全部尠クトモ現在ノ待遇ヲ以テ東京市ニ勤続セシムルコト(品川意見書=一七)
(3) 前項吏員以下ノ本町ニ於ケル在職年数ハ市ノ在職年数ニ通算スルコト(品川意見書=一八)
(4) 現ニ本町ニ於テ退隠料遺族扶助料ヲ受クル者及現ニ其ノ支給ヲ受ケサルモ其ノ既得権者ニ対シテハ市ニ於テ其ノ義務ヲ継承負担スルコト(品川意見書=一九)
(『大井町史』他)
その他、大井町の場合には、
大井町地先海面ノ埋立ニ依リ本町カ獲得スヘキ利益ノ処分方ニ関シテハ此ノ益金ヲ以テ本町内ニ適当ノ施設ヲ目的トスル財団法人ヲ設立シ普ク民衆ノ利益ニ供スルコト。
このようにして、荏原郡下の各町村をはじめ五郡八二ヵ町村はすべて府知事の諮問通り異議ない旨の答申を行なった。
一方東京市会は府知事諮問にたいしなお部分合併を主張する反対派が異議を唱え、市会内部で相当激論を闘わした。が結局採決の結果四一対二八の多数をもって諮問通り五郡八二ヵ町村との合併を決定し、ようやく合併問題も山をこえた。
市郡各町村の答申をうけた府知事は、これを府参事会にはかった上、昭和七年五月二十三日、内務大臣に市郡合併許可の禀請を行なった。これに対し、翌二十四日には早くも内務大臣より許可指令が出された。
ここに多年の懸案であった市郡合併の大問題は法的手続をおえ、いよいよ新しい二〇区が生れることになった。多年の懸案とはいえ、実際にこの問題が具体的になったのは前年であり、この大問題がわずか一年で結着を見たのは、震災後の郡部の急速の都市化という客観的条件の成熟と五郡の一致した合併希望の運動によるものであった。