新区の編成と品川・荏原区の設置

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ところで、市郡併合にともなう問題の一つは、新区の編成と区役所位置の決定であった。伝統的感情、政治的事情あるいは生活上の利害等いろいろな問題がからまっていた。区の編成決定は府知事の権限に属していたが、府知事は市当局と内議して一〇項目の「新区設定基準」を決め、これに拠って新区の編成案を作成した。

 その主なものは、新区は現在の町村界を踏襲し、その人口は一四万ないし二〇万人までを基準とする。その他交通機関の利用、風俗・習慣・政治関係等を考慮している。

 最初の案は東京市当局によって作成された。これによると、荏原郡は全体を六区にわかち、第一区は、大崎町・品川町・大井町を区域とし、これを品川区と称し、第三区は馬込町・荏原町を区域とし、荏原区と称している。その理由書は次の如く記している。

 品川区      人口         面積        密度(一萬坪当)

  大崎町     五三、七七七人    九六一、〇四三坪  五五九人

  品川町     五五、六三九     九〇四、七七八   六一五

  大井町     七〇、〇八〇   一、二二八、一八五   五八〇

   計     一七九、四九六   三、〇七四、〇〇九   五八四

 大崎町・品川町及大井町三ケ町を合して新に品川区を編成するものとす。品川町は往昔以来品川宿として知られ江戸四宿の一なり。実に南門の首駅として西方交通の要衝を扼し、古より殷賑を見たるのみならず明治初年品川県設置の際は県庁在地たり。而して北は大崎町、南は大井町に続き、此の地域は本市郊外町村中に於ても最も早く都市化を見たる地域の一なり。三町概ね其の町政及町勢に於て軌を同くし、人情風俗又相通ずるものあり。交通機関としては省線環状線と品川町より大崎町へ同京浜線及京浜電気鉄道は品川大井両町を貫通す。又京浜国道には乗合自動車の便あり。目黒蒲田電気鉄道、大井線は大井町駅を起点とし荏原町を経て砧村に至る。更に未成線東京郊外鉄道は此の地を起点とす、大崎町内に於ては目黒蒲田電鉄は目黒駅を起点とし、池上電鉄は五反田駅を起点とし共に荏原町を経て西走す。郊外軌道交通機関斯の如く発達せるに更に都市計画幹線道路たる環状線及放射線の築造殆んど竣成し、交通の便極めて好良なり。

 是に依て見るも前記三町を画して一区を編成するは最も自然にして且実際に適応せるものと謂ふべし。

 荏原区     人口         面積          密度(一萬坪当)

  荏原町    一三二、一〇八人   一、七五三、八九五坪  七五三人

  馬込町     二三、〇二五    一、二五〇、二三三   一八四

   計     一五五、一三三    三、〇〇四、一二八   五一六

 荏原町及馬込町の二ケ町を合せ新に荏原区を編成するものとす。

 荏原町は本市隣接町村中人口最も多く、近時中小住宅地としての発展実に顕著なるものあり、戸口の如き既に其の飽和状態に近し、馬込町は其の南西部に接続し漸次荏原町の延長としての進展を示しつつあり、池上電気鉄道は両町の北部を横断し大崎町・五反田に至る。目黒蒲田電気鉄道は両町の北端を走り其の支線たる大井線は本町北端より荏原町を横断し大井町に至る。更に京浜電気鉄道は将来五反田・蒲田を連結し両町の東部を縦貫せむとす。又池上電鉄未成線は洗足と同線池上駅とを連結せんとす。

 田園都市は荏原町西北部馬込町北端及碑衾町南端に跨りて特殊なる文化的住宅地を成せり。如斯両町は地勢其他の関係上相合して一区を構成すべきものとす。

 この案に基づき、東京府知事は先に市会および町村会に対して合併に関する諮問を行なった昭和七年五月十一日と同日、東京市会に対し「区設置ニ関スル市会ヘノ諮問書」を発してその意見を求めたのであった。

 しかし問題は市会の意見よりもむしろ町村の意何そのものこそ重要であった。各町村は府知事への答申とともにそれぞれ希望条項を意見書として提出した。これについては先に述べたが、このなかで各町村は新区編成についての希望を述べた。

 品川町は品川・大崎・大井三町をもって区を構成すべきこと、区役所を品川に置き、品川区と称すべきことを強く要望した。

 大崎町は、先の意見書中とくに一項を設けて、「大崎町ト品川町トヲ以テ一区ト為シ両町ノ中間ニ区役所ヲ設置セラレタシ(『市郡合併記念大崎町誌』)と要望した。

 大井町の場合は答申書提出前に府知事宛てに「東京市域拡張に伴ふ行政区設定に関する請願書」を提出し、品川町・大井町・入新井町をもって一区を編成するよう希望し、その理由をつぎのように述べた。

 行政区の編成に関し吾が大井町は之を交通機関の関係より観察するに、品川町を起点とする国・府道及京浜電鉄と国有鉄道との三線を併行せる在り。隣接品川町及入新井町とは古来より密接なる情誼を有し、人情風俗等史的関係極めて濃厚なるは識者の等しく認める処に有之、尚又之を地形上より観察するに此の三町を通じて東京は東京湾に面し、水産水運其の他の利益を共通するもの不尠。

                                              (『大井町史』)

 品川区に関して三者の意見はそれぞればらばらであった。しかしこの問題については結局市・府当局の原案通りに決定された。

 荏原区に関してはさきに述べたように、東京市の原案は荏原町と馬込町をもって一区を構成するとの案であった。ところがそれ以前すで府知事から内務大臣宛て内申では荏原一町で一区とし、馬込町は大森区に編入するとの案が出されていた。この案を知った荏原町はただちに内務大臣宛てに陳情書を提出し、荏原と馬込による一区編成を強く希望した。

 他方、馬込町は郡部随一の人口増と、それに対応した諸施設の拡充・整備に追われ財政上窮迫している荏原町との合併をきらい、馬込町内会の名をもって大森区編入の運動をおこした。このときまた東京逓信局も通信事業の運営上の理由をもって、馬込町は大森区に編入されたいとの意見を関係当局に提出していた。これらの意見が勘案され、結局東京市参事会は、原案を変更して荏原区から馬込町を削り、これを大森区に加えた。

 かくして最終的には、種々の利害がからみあった新区編成も、品川町・大崎町・大井町をもって品川区を構成し、荏原町は単独で荏原区を構成することとなった。ここに新たに品川区・荏原区が誕生し、東京三五区の仲間入りをしたのであった。