(1) 都市化と教育

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 関東大震災の勃発、近郊電車の発達がこの地域とくに荏原地区に異常に急激な都市化の進展を遂げしめたことは既にたびたび述べているが、この住宅地化、それに伴う人口の増加が教育面に及ぼした影響はじつに大きいものであった。とくに小学校の設備は既存の学校では、転入して来る多数の児童を迎え入れるのにとうてい間に合わず、各校とも二部授業を行なうのが普通となり、なかには三部授業までするものも生じ学校の新設が非常に急がれた。

 そのため各町の予算の大きな部分を学校新設をはじめとする教育予算にとられる始末であったが、とくに荏原町では中産階級以下の震災罹災者や勤労者家庭を一挙にかかえたため、とぼしい町財政の多くを学校建設費にあてざるを得ず、苦況に立たされていた。たとへば昭和六年の予算を見ても総予算のうち小学校費五〇・二四%をもしめているのであり、また、二部授業について見ると(昭和六年)当時の一〇校すべてが行なっており、その学級数は一六〇学級(一年五四、二年五〇、三年三九、四年一七)、生徒数七、九七五名で全生徒の半数に達するありさまであった。

 また、この頃からは中等学校に進学する者も多くなったため、それに応じて私立の中学校、高等女学校なども各地に設立され、いつでもどこかで校舎造りのつち音が聞こえるという状態が続いた。


第111図 京陽小学校,児童数の変化

第153表 京陽小学校三校(宮前,大原,小山)に分離直前の児童数,学級数 (大正15年11月1日)

(1年―6年)2,973名

学年 学級数 備考 (1年~6年)
学級数54
 
高等科 6学級
 
計60
1年 12学級 本校
2年 10 〃 本校
3年 8 〃 第一分校
4年 8 〃 本校
5年 9 〃 星分校
6年 7 〃 本校
高等科1・2年 6 〃 星分校

 

上の表のような学級数では,運動会でも学芸会でも,自分の学校という訳にはいかないので,専ら星商業の講堂と校庭で行なった。

第154表 京陽小学校児童数の変化(大正9年~昭和11年)
年次 児童総数
大正9年 499
10 570
11 785
12 1,164
13 1,849
14 2,695
15 2,973
昭和2年 1,662
3 1,828
4 1,352
5 1,351
6 1,396
7 1,501
8 1,544
9 1,573
10 1,323
11 1,374

 

震災後の復興のころ、一刻も早く平和な所を求めて殺到して来た人々が、平和で牧歌的な戸越という昔乍らの半農村のここに、ほっと息をついたにちがいない。一時このあたりは罹災者で一ぱいとなった。それからの建築ブーム、子供の入学、入学、入学、先生たちは毎日班を作って各方面に出かけ罹災児童を調査し、入学を勧めて廻るのであった。毎日毎日うんざりする程の数の親と子供を見つけ出し、京陽学校へくるようにとその手続きをとってやるのだった。忽ち学校中がはち切れるような子供で手のつけられぬさわぎになり、先生が、これまたいくら集っても足りない程の大学校になった。児童数も三、二〇〇余人となり、山浦校長は名前も顔も知らない先生が一年以上も前から来ていると聞いて、びっくりしたという冗談まで出る人数になった。そこで何とも仕方なく旧荏原区役所の前身の高等小学校も、星商業の講堂も臨時に借りて分教場にしたがそれでも二部三部というさわぎだった。(京陽小学校開校九〇年記念誌より)