平塚村(荏原町)は大正九年の第一回国勢調査の時には、わずか人口八、五〇〇人ほどの農村に過ぎなかった。それが昭和五年には一三万二〇〇〇人という日本一人口の多い町にふくれ上がったのであり、いかにその都市化がすさまじいものであったかが想像できる。そのため、小学校も新設につぐ新設を強いられた。この時代に創立された学校名をあげると、大正十五年に大原・宮前・小山の三校が、そして昭和三年には第二延山・後地・源氏前・大間窪の四校が設けられ、既存の三校の倍以上の学校がこの短い期間に設けられたのであった。
この小学校新設にあたり、その用地を得るためには新開地で地価も上昇する時期であったので多くの苦労を重ねたものらしい。
たとえば宮前小学校の敷地の選定では、その候補地が三井の別宅の近くであり、近所の新興商店街から広い敷地をとられることは商売上困るとの反対が出、そのため、表通りの奥行六間の土地は民有地として残すという約束で決定した。
しかし、これらの各小学校も創立当初より生徒数は一、〇〇〇名を突破する学校が多く、昭和七年東京市制編入後の時期にも、また何校かの新設校を設ける必要にせまられていたのである。