立正学園女学校 (現 立正学園女学校)

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昭和二年七月、立正大学社会問題研究員の主体メンバー、馬田行啓氏、小野光洋氏らが中心となり立正婦人会の協力を得て、西大崎桐ケ谷に家を借りてその年の九月裁縫塾と幼稚園を開いたのが最初であり、立正裁縫女学校と称せられた。当時の生徒は昼間部二〇名、夜間部五五名という小規模なものであった。そして、昭和三年、実業学校令による学校として立正女子職業学校の名で認可された。しかし定員が二〇〇名となり、西大崎の校地は狭隘に過ぎたので、昭和四年荏原町中延に法蓮寺および鏑木忠正氏所有の校地(現在地)約一、三〇〇坪に約五〇〇坪の校舎をたて、また校名を立正学園女学校と変更した。その後昭和七年、職業家庭科中心のほかに、普通科の五年制の高等女学校を新設し、従来の学校は高等家政女学校と改称して戦後にいたるのである。


第116図 立正学園旗ケ岡校舎敷地(昭和4年)