1 概説

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 昭和七年(一九三二)十月一日、品川町・大井町・大崎町と荏原町は、東京市と合併し新しく品川区・荏原区に生まれ代わった。第一次大戦前後から、日本資本主義の急速な発展につれて、首都東京への資本や人口の集中・集積が著しくなり、隣接町村へもしだいに都市化の波が浸透してきた。とくに関東大震災は隣接町村の宅地化・都市化を一挙に押し進める最も大きな契機となった。現在、山の手と呼ばれている地域への人口流入はめざましく、そのなかでも旧荏原町の人口急増ぶりは、他町村よりひときわ抜きんでていた。こうして、事実上、東京圏内に巻込まれていた隣接町村を行政上においても、東京市へ編入したのが、この市郡併合だった。東京市は、ここに新しく二〇区を加え、人口四九七万人の、ニューヨーク市に次ぐ、世界第二位の大都市へと躍進した。

 町役場は区役所になり、町役場の吏員は東京市の吏員、町会議員は区会議員になり、新しく市会議員が選ばれ、町民は東京市民、区民になった。併合後も人口がふえ、商店がふえ、工場も建設され、町並みもにぎやかになっていった。市郡併合は、たしかに一つの歴史的発展であった。


第117図 市郡併合記念の絵はがき

 しかしながら、そこには同時に、多くの矛盾、問題点があった。

 その問題点の一つは都市施設の立ち遅れだった。新しく東京市に併合されたものの、道路は旧来の村の道のままだった。雨がふればたちまち、ぬかるみとなり、日照りが続けばほこりの舞い上がる凸凹道だった。水道も施設が追いつかない上に、旧市内より高い料金を払わされた。ガス料金はそれ以上にひどく差別され、新市内になった区の住民は高い料金を取られっぱなしだった。ごみ処理も、し尿処理も、満足には行なわれなかった。急にふえた児童を通わせる小学校も満員で、教室も先生も足りなかった。第二次大戦後の三多摩の状態とかなり似通った問題をかかえていたわけである。このような都市施設の立ち遅れは、根本的には市郡併合が、計画的に、都市化の進行が現実に進む前に行なわれなかったこと、つまり、都市計画が都市化に先行して行なわれなかったこと、無計画だったことにある。そして、東京市・品川町・荏原町・大井町・大崎町の理事者にしても、たとえ、その意思を強くもっていたとしても、戦前の日本の地方行政機関は、今日のような、まがりなりにも地方自治体ではなくて、中央政府の末端機関であり、下請でしかなかったために、ほどこすすべも、予算も、もてなかったことに、より根本的な原因があった。さらに、はっきりしていたことは、住民の生活を優先させるのではなくて、まず、治安であり、それに必要な限りの都市計画しか行なわれないという限界をもっていた。何よりも国の予算は軍事費中心だった。

 しかも、不幸なことに、一九二九年世界恐慌の嵐が日本にも波及するにつれて、商店や工場の倒産があいつぎ、失業・賃金値下げ・欠食児童・一家心中など深刻な経済不況と生活難・社会不安が襲いかかった。

 政府は金輸出再禁止=金本位制の離脱、為替ダンピングによる輸出産業の振興をはかった。旧品川区地域の輸出豆電球産業の発展は、この時期が戦前における一つの山場をなした。

 だが政府が、これと併行して進めた方針は、昭和六年の「満洲事変」にはじまる中国大陸への武力侵略・戦争拡大への道だった。ちょうど、品川区・荏原区が誕生した十月一日は、国際連盟のリットン調査団が「満洲事変」についての報告書を日本政府に提出した日でもあった。

 昭和十一年二・二六事件、十二年日中戦争、十六年太平洋戦争勃発と、戦争のエスカレーションによって、区民生活は、言論・思想面でも厳しく統制されてゆくとともに、生活物資も急速に不足し、生活は日に日に窮乏の度を加え、ついに必要品の食糧や衣料さえも、配給制度によって消費が統制されるようになっていくのである。

 大多数の区民は必ずしも、この戦争への道を、自分自身で積極的に選んだのではなかった。中には少数の区民は、この戦争への道を進むことに敢然と反対し、積極的に反対の闘いを展開する者さえあらわれた。しかし、大多数の区民を戦争反対の大きな勢力として結集することには成功しなかった。その結果、一部の反戦の先覚者たちは、獄につながれ、逆に戦争支持を誓わされ、転向を強制される始末だった。

 ただ、戦争への道は一部の軍部勢力の思い通りに、安々と進められたわけでもなかった。たとえば昭和十年―十一年の選挙においても、無産党の代議士を全国一位で当選させるという形で、あるいは、賃金値上げや首切り反対を闘う労働争議という形で、戦争勢力への抵抗が示された。しかし、この運動も、はかない抵抗に終わった。それは、生活できない民衆の貧しさは、「満洲」に王道楽土を建設することによって解決するという、排外思想に対抗できなかったからである。良心的な人々は口を閉じてしまった。代わって軍国主義者たちが、区民生活のすべてを支配するようになっていった。

 反戦の先覚者たちが、〝戦争になると夫や兄を死なすぞ、家族は路頭に迷うぞ〟という叫びが、わずか十年間で、現実になった。営々として築いてきた家や、財産が、ひと晩のアメリカ軍の無差別爆撃で灰になってしまった。応召した夫はついに帰ってこなかった。焼夷弾で一家全滅し、あるいは生れもつかぬかたわになってしまった。こういう不幸が多くの区民の運命として、のしかかったのである。

 この大きな災難が、区民に、いやというほど、軍部勢力の間違いを、事実をもって示した。権力者に対する不平不満は区民の心底に、漠然としてはいたが、しかし根強い底流として醸成されていった。