新しい自治体・区の出発

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昭和七年十月一日、東京市の自治記念日を期して五郡八二ヵ町村は新たに二〇区として市に合併し、人口五〇〇万、面積は以前に七倍する大東京市が実現した。ここに明治二十二年市制町村制以来つづいてきた品川町・大崎村―大崎町・大井村―大井町は姿を消し、新しい自治体の品川区が誕生し、また平塚村―平塚町―荏原町も荏原区として再生した。

 この日、東京はいたる所で合併祝賀の催しが行なわれ、花電車が運転された。新生の品川・荏原区でも提灯行列が行なわれ、神輿(みこし)・山車(だし)が出た。そこには長い間合併を希望し、その実現のために努力してきた関係者・市民の喜びが卒直に表明されていた。


第118図 合併祝賀の品川(『東京市域拡張史』より)

 しかし、品川区・荏原区にとって区制の実施がただちにすべての問題を解決するわけのものではない。新生の区にとって困難な問題が山積みしていた。小学校の二部授業をはじめ、道路・上下水道・社会事業施設など旧市と比較したとき、その貧困はおおうべくもなかった。荏原区でいえば、区内各所に散在するマッチ箱のような小住宅地と、小山の高級住宅地がコントラストをなし、小山銀座・戸越銀座・蛇窪銀座などの商店街には、大小の商店が軒をならべる。一農村から震災によって、突如大市街地に発展した荏原区にとって矛盾は深刻であった。東京市の市民税平均額が六円二〇銭であるのにたいして、荏原区の平均は三円一八銭、約半額にすぎない。このことは区内にいかに低所得者が多かったかを物語っている。しかもこれから整備拡充しなければならない都市的施設はあまりにも多かった。

 ところで東京市の区とはどのような性格をもっていたのだろうか。東京市の区は明治四十四年改正の市制第六条による法人格を認められた自治区で、東京・京都・大阪の三市にのみおかれた。しかし京都・大阪両市の区が単に国や府・市の行政事務を処理する行政区であるのにたいし、東京の各区は独立の議決機関である区会をもち、自己の財産および営造物を所有するなどの性格をもった自治区であった。そして区会は同時に学区の機関を兼ね、学事に関する議決を行なった。その権限は市に代わって小学校を設立し、これを維持管理することであった。

 事務執行機関の長である区長や収入役その他吏員は、東京市長が任命した。区および区長の権限はきわめて狭く、固有事務はただ財産および営造物に関する事務に限られており、その他は多く国・府・市の委任事務であった。

 かつての品川・大井・大崎・荏原の各町は自ら町の条例を制定する権限をもち、町税を課する権限、町債をおこす権限をもっていたが、これらの権限は区にはいっさい認められていなかった。また自治体の首長である町長は町会で選出されたが、区長は市長の任命であった。住民自治の立場からいえば、区制の実施は大幅な後退であるといわねばならない。