(ロ) 上水道―玉川水道の市営化―

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 住民の日常生活にもっとも密接な関係をもち、保健衛生上からみても必要な上水道は、品川・荏原区とも大きな問題をかかえていた。合併前の荏原郡町村の多くは、井戸水と私設会社玉川水道株式会社からの給水によっていた。

 玉川水道は大正七年、入新井・大森・羽田・蒲田四町の荏原水道組合をもとに創立され、翌八年には前記四町のほかにさらに品川・大井・大崎方面にも給水をはじめ、ついで十二年には平塚村にもその給水施設を拡張した。

 玉川水道の水源は多摩川で、荏原郡東調布町下沼部に取入場を設け、調布・玉川の二ヵ所に浄水場をもっていた。合併前の給水状況は各町によって異なるが、たとえば大井町の場合は、町民の約半数は玉川水道の需要者で、残りの半数は井戸水を使用していた。荏原町の場合、玉川水道の使用は合併時約八、〇〇〇栓(戸数約三万二五〇〇戸)、合併後の昭和九年でも、水道使用一万二六一四戸、井戸・水道併用一、〇一八戸、井戸使用一万八八三二戸という状態であった。水道は漸次普及しつつあったとはいえ、なお約六割方は完全に井戸水を使用していたのである。

 ところで玉川水道の水道料金は、一四立方メートルまでは一円五〇銭とし、ほかに計量器使用料二五銭を徴収していたので、東京市の水道料金と比較すると一ヵ月で約八〇銭の差があり、住民には大きな負担となっていた。

 こうしたことから、荏原郡下の玉川水道から供給をうけていた各町村では、町村組合をつくって公営事業とするため、いろいろと運動をつづけてきたが、結果をみないまま市郡併合となった。

 市郡合併により東京市の一部となった旧荏原郡の六区市民にとって、同じ市民として高い水を毎日使用しなければならないということは、なんとも不公平なことであった。しかも合併によって新市域となった江戸川水道・荒玉水道・代々幡・大久保・戸塚・淀橋・渋谷・千駄ヶ谷などの各町村組合経営の水道は市営に移行し、料金はひじょうに低減された。ひとり荏原の玉川水道のみ私営ということで、ただちには買収が行なわれず、旧荏原郡の区民のみが高額の水道料金を負担しつづけた。

 区制施行後、城南六区の住民は、市民負担公平の原則から、玉川水道料金を市営水道なみに引きさげることを強く要求した。そのため区会もしばしば東京市当局に意見書を提出して、水道料金均等のための措置を求めた。

 また六区はそれぞれ代表を送って、城南六区水道連合委員会を結成して当局に働きかけた。

 ところがたまたま昭和八年六月、玉川水道が多量の塩分を含む水を供給したため、市民の怒りは爆発した。品川・荏原区内各所で玉川水道糾弾の演説会が開かれ、運動は大きなもりあがりをみせた。

 市民の要求を六区水連委員会は、(一)玉川水道は悪水供給中は水道料金を全免すべし、(二)玉川水道は水質回復の場合は水道料金を市営水道と同一にすべし、(『府民新聞』昭和八年七月一日)の二項目にまとめて会社に交渉した。警視庁も東京府も市民の声におされて黙しがたく、水質検査を行なうとともに、会社に対し厳重な警告を発した。会社側も折れて六月分料金は半額とすることを言明するにいたった。


第121図 玉川水道問題を報ずる新聞記事 (『府民新聞』No.367,昭和8年7月1日付)

 この事件をきっかけに、運動は料金値下げから玉川水道営業許可年限(昭和九年七月二十二日)の満了とともに、同水道を市営に移すことを目標とするようになった。

 昭和九年五月、品川区会は内務大臣・府知事・市長にあてた意見書で、つぎのように区民の意見を訴えた。

 玉川水道公営に関する意見書

 玉川水道株式会社の給水料金は一ケ月金壱円七拾五銭にして市営の各水道料金に比し一ケ月に付実に八拾銭余の過重なる負担にして市民負担の均衡上最も不合理とする処に有之而已ならず同社の水質は極めて不良にして保健衛生上看過し能はざる実状に付本区議会は曩に同社に対し応急手段を命ずると共に関係当局に対し意見書を提出したる次第なるも之が解決の根本策は此の際会社の経営を止め東京市に於て経営するに在るものと確信仕候。

仄聞する処に依れば同社の営業許可年限は昭和九年七月二十二日を以て満了と相成る為会社は之が継続出願を昭和七年九月二十四日監督官庁に提出せる趣なるも水道は水道条例本来の趣旨に則り東京市に於て経営せらるる様御高配相仰度、尚市営とする場合に於ても営業年限満了後に於ては同条例の適用に関し買収価格其の他に関し著しき差異有之は既に法文に示さるる処に付、此際同社の再出願に対しては絶対に許可を与へられざる様切望致候。

右市制第四十六条に依り意見書及提出候也。

(『庁舎落成記念 区勢概要』)

 こうした城南六区の区議・区当局者をはじめ区民の一致した要求に、同年六月三十日の東京市会は内務大臣の諮問に答え、水道条例第一七条に依る強制買収を決議し市営とする旨答申した。

 その後この問題は市と玉川水道との間に買収価格について折衝が行なわれた。しかし両者の価格に相当な差があり、交渉は難航した。結局、翌十年三月にまでもちこされ、府知事の裁定により、買収価格一、八二六万円余で折合い、同月二十日より玉川水道は市営となった。

 ここに旧町時代より運動を続けてきた市民の要求は完全に満たされることになったのである。