(ハ) 下水道

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 保健衛生上もっとも関係ある下水道については、新区域のたちおくれはひどいものがあった。比較的早く市街化した旧品川町さえ下水の大部分は木造開放式のきわめて非衛生的なものであった。ようやく大正十五年にいたって道路幅を有効に使用するために、従来の土留めによる方式を、鉄筋コンクリート管を埋設する方式に変える方針がたてられた。震災後の復興事業で、この鉄筋土管およびヒューム管の埋設方式は、耕地整理地区をはじめ改良工事施行地域で実施され、保健衛生上好結果をもたらした。しかし巨額を要する改良工事は全地域に行きわたらぬうちに市郡合併を迎えた。

 旧大井町の場合はもっとたちおくれていた。従来田畑だったところが急速に住宅地・商店街と化した。ところが雨水・汚水を排泄する下水路は、十数年前の田畑用悪水路そのままで、応急的な処置をなしたにすぎなかった。そのため汚物の沈澱・停滞ははなはだしく、夏になると悪臭を発し、蚊の発生源となった。また大雨がふるとたちまち氾濫して屋内に浸水、伝染病発生の原因をつくった。

 昭和七年二月、長期にわたる町理事者の調査に基づき、大井町会は下水道調査費年期および支出方法を決定した。しかし実施にいたらずして市郡合併となった。

 品川区内にあってただ旧大崎町のみは、長年の努力により下水道が整備されていた。大崎町の下水道改良事業は、大正九年町長立石知満のもとに早くから調査を行ない、東京府技師高山武次郎によって設計がなされ、翌十年八月町会に付議した。町会はこれを詳細検討し、十一年六月、第一期工事を五ヵ年事業として行なうことを決定した。その後大震災などもあって内務省の許可が出て、工事に着手したのは大正十三年四月からであった。

 設計は、雨水・汚水を同一管渠に導き、これを目黒川に放流するというもので、地形を利用して自然流下によって目黒川に排水した。町内を目黒川を界に南北二系統に分け、排水口を十数ヵ所に設けた。

 品川区内は以上のような状態であったので、下水道改良も区民の保健衛生上からは緊急を要する問題であった。

 昭和八年五月五日、下水道事業促進に関する意見書が品川区会から市当局に提出され、区会はそのなかで次のようにのべた。

現在区内の消化器系統伝染病発生は品川大井方面に増発の状況を示し、昨秋来の統計に見るに下水道の略々完成せる旧大崎町は人口一万に対し九人〇三なるに比し、品川は一一人四二、大井は一一人九一の高率に達し、区内住民をして戦慄せしむるの状態に在り。

(前掲・区勢概要)

 こうした区会の姿勢もあって、下水道改良は徐々にではあるが進行するにいたった。