(ニ) 糞尿・塵芥処理

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 糞尿・塵芥処理は市民生活に重大な影響をもっている。糞尿処分は古くは近郊農家へ下肥料として前金払をうけて汲取らせていた。ところが田畑の宅地化にともない、また化学肥料の使用による糞尿の使用減少にともなって、農家の汲取りは減った。そのため従来とは反対に、汲取業者と契約して相当の代金を支払って汲取らせるにいたった。

 糞尿処理の方式は旧町制時代より品川・大崎・大井・荏原とも個人請負業と町民の個人契約にまかされ、町当局はいっさい関与しなかった。この点は区制施行後も同様であった。汲取業者は一戸につき一ヵ月五~六〇銭の汲取料でこれを集め、目黒川沿岸で船につみ、遠く房総方面にもっていって処分していた。

 このことに関し、品川区会の東京市当局に提出した意見書にはつぎのように指摘されている。

 区内に於ける糞尿量大約一日一千八十石に及ぶ処分の現状を見るに昭和六年七月警視庁東京府告示第二号に依り指定せられたる北品川三丁目二四八番地先大井南浜川町一八九七番地先及大井鈴ケ森町一九二五番地先に於て各請負業者が船舶に積載し遠く房総方面に搬出処分し居れるも、之等は主として旧品川及大井両町の大部分に属し旧大崎町の分は未だ其の処分場の決定を見ず目黒川の附近より船舶に依り搬出するの実状なり。

(前掲・『区勢概要』)

こうした現状に対し、次第に区民からも苦情が出、区当局も保健衛生上より重大視、区内糞尿の全部を処分しうる一大集散場の設備建設を市当局に要望するにいたった。

 昭和九年には東京旧市内一五区の糞尿処理を市営とする決定がなされた。これに関連し品川区会はさらに新編入区の処理も市営とすべき旨の意見書を提出したが、こうした都市的設備が完備するようになったのは、戦後であった。

 塵芥処理に関しても同様であった。旧品川町は大正期以来塵芥処分を清掃営業者に補助金を与えて請負わせてきた。しかし人口増にともないもはや請負制度では限界があるとして、大正十四年大井町字坂下にある塵芥焼却場を購入して町営とした。ところが付近住民の強い反対運動が起こり、そのため警察当局も許可を与えなかった。そのため品川町はいったん焼却場を買収したが、再びこれを売却した。従って塵芥は依然請負業者が集め、海面埋立用として千葉県へ搬出しているのが現状であった。

 大井町の場合、古くは低地あるいは沼地に埋没投棄していたが、次第に町内の埋没場所が少なくなり、請負業者は遠く海を越えて南葛飾郡葛西村方面まで搬出処理していた。大正十五年に町内に塵芥焼却処理を目的とした三陽株式会社が設立された。町当局はこの会社に全町の塵芥焼却を委託したが、会社にその能力なく、一部は依然町外に搬出処理せざるをえなかった。

 その後昭和五年に至って汚物掃除法が改正され、塵芥は原則として焼却処分に付することが義務づけられた。そのため、町当局も意を決して三陽株式会社の施設を買収し、これを増築して町直営を以て焼却処理することに決し、昭和七年経費を起債し、八月三陽株式会社を買収した。しかし施設の増築をみないまま市郡併合によりこれを東京市に移管した。

 ひとり大崎町のみは、早くも大正十三年に目黒川沿岸に町営塵芥焼却場を建設、昭和元年より作業を開始して、町全体の塵芥を焼却処理してきた。その量は年々増加し、昭和五年には六、五〇〇貫(二四トン余)に達していた。


第122図 大崎町営塵芥焼却場

 こうして同じ区内にありながら、品川・大井・大崎それぞれ処理方式を異にしていたため、区内住民の負担均衡を失し、区当局もその統一的処理をせまられるにいたったので、市に対し区内全部に市営による焼却処理施設の設置を要望したのであった。

 以上道路・上水道・下水道・糞尿・塵芥処理等の施設について、区制施行当時の状態を概観してきたのであるが、こうした都市的施設の問題は、上水道問題を除いて何ら抜本的な解決をみることなく、問題はすべて太平洋戦争後にもちこされたのであった。