大正十四年、普通選挙法は難産の末成立した。これによって有権者は、それまでの三三〇万人から一、二五〇万人へと増加し、国民の政治への参加の途を拡大した。だがその内容は、婦人参政権が認められなかったのはもとより、選挙権は二十五歳以上、被選挙権は三十歳以上に限られたものであった。しかも既成の政党に有利なように選挙違反に対する連座規定は骨抜きであり、またその地盤維持策として町村別の投票点検が定められていた。そしてこの普選法の特質をよく示すものは、その選挙運動の制限強化の規定であり、無産政党候補者の立候補制限を意図する二千円もの供託金制度であった。この点について、政府当局は普選法審議の過程で、普選は民衆を革命運動に走らせないための安全弁であることを強調しており、米騒動以後の民衆の政治的進出を抑える意図をもつものだった。普選法と抱き合わせで、悪名高い治安維持法が制定されたことは、普選の内実を端的に示すものであった。
普選法が制定されたとはいえ、第一回普通選挙による総選挙の施行は遅れた。これは政友会などの既成の政党が、普選の結果に一抹の危惧感をもっていたことの反映であった。一方普選の施行に刺激された無産派の政党結成への動きは具体化した。それは「単一無産政党」結成を求めていた。しかし大正十四年、労働組合運動が右派(総同盟)と左派(評議会)に分裂したことは、無産政党結成をめぐる左・右両派の対立を激しいものとした。無産派内部の対立は、昭和三年二月の第一回普選の前には、左派(労働農民党)、右派(社会民衆党)、中間派(日本労農党)の三派の鼎立としてほぼ固定化していた(第156表参照)。
昭和三年二月、政友会の田中義一内閣の手によって第一回普選が挙行された。選挙の結果は、政府の露骨な選挙干渉によって、与党政友会が立憲民政党を僅かに抑えて、第一党の座を奪い、無産政党は五〇万票近くを獲得し八名の当選をみた。
それまで東京第十三区(定員三名)であった荏原郡は、第一回普選では荏原・豊多摩の二郡と伊豆七島からなる東京第五区(定員五名)として選挙を行なった。無党政党からは、政友会四人、民政党三人の候補者に伍して、加藤勘十(日本労農党)、秋和松五郎(労働農民党)、小川清俊(民衆党)の三名が立候補し、激しい戦いを続けた。この選挙に対する第五区の人々の関心は高かった。東京朝日新聞(昭和三年二月二十一日)は、この様子を「棄権などとは滅相な、もう一枚頂きたい 巡査や職工・労働者諸君が大手を振る郡部」と報じ、平塚町役場投票所に午前六時半から四、五十人の有権者が行列していたことを伝えている。
この選挙で注目すべきことが二つあった。第一は、第一議会以来議員として地域のため、また国政全般にわたって活動してきた高木正年が、四万七〇〇〇以上得票して、全国第一位で当選したことであった。高木は地元のみでなく、各地域でまんべんなく得票して他候補を圧倒した。
第二は、無産党候補の出現であった。無産党候補者は一万七〇〇〇票近くを獲得し、加藤勘十は一万余票を得、在郷軍人会に基盤をもつ佐藤候補(政友会)を追撃したが、三〇〇〇票の差で涙を呑んだ。なお当選者は次の通りである。
高木正年(民政 前) 四七、二七八
鈴木富士弥(同 同) 二〇、九九五
牧野賤男(政友 新) 一七、七一七
斯波貞吉(民政 元) 一五、〇〇九
佐藤安之助(政友 新)一三、五六六
第一回普選で惜敗した無産派は、同年六月の東京府議会議員選挙でも、三党が乱立し、その得票は品川・大井・大崎・荏原町では二、〇〇〇余票にすぎなかった。(資四五一~四号)しかし昭和四年(一九二九)に行なわれた荏原郡町村会議員選挙では、一九ヵ町村で二〇名の無産派議員が当選した(旧陸海軍文書マイクロフィルムR二二四)。とくに荏原町では三〇名の定員のうち、四名の無産派が進出し、大崎町でも二名、大井町でも一名が当選した(資四五一~四号)。このような無産派の進出のなかで行なわれた昭和五年(一九三〇)二月の第二回普選は、五区にとって波乱ぶくみのものとなった。この総選挙において、与党民政党は圧勝し、いっぽう無産派は乱立もたたって全国的には、五名の当選者と、五〇余万票の得票にとどまった。
東京第五区においては、政友・民政の前議員五人を含め一二名が立候補し、無産陣営からも大山郁夫(労農党)、加藤勘十(日本大衆党)松岡駒吉(社会民衆党)の三名が激しく争った。とくに前回香川一区において、激しい弾圧下に落選した大山への人々の支持は強かった。大山の演説会では、場外に溢れた千人ほどの聴衆に警官が加えた弾圧に対して、聴衆が学校の校門をおし倒し、検挙者まで出る事態も生まれた(『東京朝日新聞』昭和五年二月十六日)。この選挙の結果、無産派は前回の得票を三倍近くに伸ばす四万七〇〇〇余票を獲得し、大山は当選した。なお当選者は次の通りである。
斯波貞吉(民政 前) 三四、三〇三
高木正年(民政 前) 二九、三八七
鈴木富士弥(民政 前)二四、七四五
牧野賤男(政友 前) 二〇、八八八
大山郁夫(労農 新) 一九、三〇三
しかし五区における無産派の二〇%以上の得票率も、三十一年九月の満洲事変によって押し流されていった。満洲事変による国民の排外熱、弾圧の強化、無産運動の右傾化という条件の下で行なわれた七年二月の総選挙は、与党政友会に三〇〇以上の議席を与え、無産派の当選者は五名を維持したが、その得票は前回の半分に激減した。五区においては三回目の挑戦である加藤勘十(全国労農大衆党)は、大山郁夫の去った後の議席獲得も夢ではなかった。しかし労働戦線の右翼的再編(日本労働倶楽部の結成)にからむ中間派全国労農大衆党の内部対立は、それまで栃木を地盤とした麻生久を党公認とし、加藤の立候補中止を命じた。そのなかで加藤は無所属で立ち、麻生・松岡と争うこととなり、三人とも落選し、その得票も三万余票に止まった。なお当選者は次の通りである。
三上英雄(政友 新) 四五、〇二二
牧野賤男(政友 前) 三六、六二三
鈴木富士弥(民政 前)三〇、一二五
高木正年(同 同) 二九、一八九
斯波貞吉(同 同) 一九、〇三八