戦時下の区財政

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日中戦争・太平洋戦争と総力戦が長期化し、拡大するにつれて、軍部を中心とした戦時体制が強化された。これにともなって地方行政においても、中央集権化と官僚支配が強化され、地方自治の戦時体制化がすすみ、区財政も大きく変化させられた。

 昭和十五年の地方税制度の改正により、財政の中央集権化が制度化され、「区に属する市税」は廃止された。これに代わるものとして「東京市区財政交付金規程」が設けられ、区の財源不足は市からの「財政交付金」によってまかなわれることになった。

 品川区では、昭和十三年、十四年度にそれぞれ四〇万円、四二万円もあった「区に属する市税」が昭和十五年度からゼロとなり、荏原区で、同様に、十三、十四年度の一五万円がゼロとなった。こうして区は一切の課税権を失い、貧弱であった自主財源がよりいっそう縮小されたうえ、翌十六年度からは交付金も大幅に削減されてしまった。

 さらに昭和十六年四月からは国民学校令によって学区が廃止され、地方学事通則第三条の「学区ニ於テ専ラ使用スル学校幼稚園ニ関スル費用ハ其ノ学区内ニ於テ市税町村税ヲ納ムル義務アル者之ヲ負担ス」という条項もなくなった。このため、区が徴収してきた授業料収入もなくなり、区成立後最大の仕事であった教育事務についても、完全に実質を失うにいたった。

 品川区における使用料(小学校授業料)は、十六年度には前年度の四万円から一万七〇〇〇円と大幅に縮小し、荏原区ではゼロとなった。

 また区財政の歳出面で最大の支出項目であった小学校費が品川・荏原両区ともゼロとなり、区の事業は皆無となったといっても過言でない。

 昭和十八年(一九四三)七月の東京都制の施行により、区は都の監督・指揮の下にある下級行政組織として、一切の課税権・起債権・立法権を奪われ、区の行財政機構は総力戦体制のもとに、完全に国家の下請け機関化されたのである。