第一次大戦後の慢性的な不況に喘ぐなかで、一九二六年十二月二十五日、昭和時代を迎えた。しかも翌年の昭和二年の春には、金融界を混乱のるつぼに投げこんだ金融恐慌がおこった。東京渡辺銀行と同系のあかぢ貯蓄銀行の休業をきっかけに、まず三月中旬から下旬にかけて東京とその周辺地域で、一流のいくつかの銀行を除いて、取付騒ぎがはじまった。台湾銀行=鈴木商店の破綻によって恐慌がいっそう深刻となり、四月二十一日、一流銀行まで含むすべての銀行で、取付の長蛇の列がみられる状態になった。当時、品川町には、三菱銀行品川支店・日本昼夜銀行品川支店・東京貯蓄銀行品川支店、大崎町には古河銀行大崎支店・安田貯蓄銀行大崎支店・川崎貯蓄銀行大崎支店・日本昼夜銀行目黒支店・東京貯蓄銀行目黒支店、大井町には安田貯蓄銀行大井支店・川崎貯蓄銀行大井支店・川崎第百銀行大井支店など、一流銀行の支店を中心に、多数の銀行が存在していた。これらの支店がいずれも多かれ少かれ取付にあった。おそらく、これらの銀行の本店にも、日本銀行から札束をつめた柳行李がこっそりと運びこまれたに違いない。印刷が間に合わず、裏が全く白紙のままの二百円札が発行されるというぶざまな事態が生じたのも、この恐慌のときだった。幸い、大井町にある銀行は一行も休業には立ち至らなかったが(『大井町史』三〇四ページ)、品川・大崎・荏原の各町でも、その点では同様だったものとみられる。四月二十二日、政府はついに二十日間の「支払延期緊急勅令」を可決し、公布施行した。
昭和四年十一月二十一日、民政党浜口雄幸内閣は、金銀輸出禁止令廃止の大蔵省令を公布した。組閣以来金解禁によって財界の安定を計り、国民経済の建直しを行なうという主張を実現したものであった。「金の解禁立直し、来るか時節が手をとって……」と『金解禁ぶし』までつくられて、大新聞の支持や国民の期待が寄せられた。ところが、翌年一月、いざ実行されると、日本経済を世界恐慌の嵐の中に捲きこむ結果になった。アメリカ合衆国向け生糸の惨落、東北地方の冷害、北陸地方の雪害、西日本の旱害も重なってまず農村が窮乏のどん底にたたきこまれた。ついで、中小企業や零細な町工場・商店の倒産、大企業でも賃金値下げや人べらしが行なわれたから、東京や大阪の大都市では、これまでにないたくさんの失業者があふれた。昭和五年国勢調査で三二万人、そのうち東京府が一番多く六万二九五七人だった。内務省社会局の調査で全国三八万人の失業者数だと発表されたが、〝あまりにも少ない〟〝実際とかけはなれている〟などの非難が集中した。これは、政府がなるべく失業者を少なく把えようとする方針ないし考え方をとったのと同時に、いわゆる「見えざる失業」が日本にも多量に発生したことの反映でもあったろう。雑誌「エコノミスト」は昭和五年上期の失業を一二〇万から一三〇万人と推定したし、上田貞次郎という学者は国勢調査の結果から二三七万人の失業者がいると発表した。
政府も、これらの見解に対抗してか、昭和七年内務省社会局が「従来の非実証的な推定方法を改めて『足で知る』実地調査方法を採用」したとして、昭和七年七月の失業者五一万〇九〇一人、社会局調査開始の大正十四年(一九二五)以来の最高記録だと発表した(七〇九万二六五〇人の全調査人口に対して七・二%の失業率)。失業者の内訳は一般労働者二一万八七四五人、日傭労働者二一万〇〇七六人、給料生活者八万二〇八〇人だとされた。
ところで数の上では比較的少ないが、サラリーマン層の失業・就職難は、決して容易なものではなかった。むしろ、当時の世相としては、かなり深刻な社会問題として、インテリ・サラリーマン層の失業問題が、とり上げられていた。それというのも、一つにはインテリ層が、失業から左翼化する傾向が現実にみられたこともあったであろうし、今一つは自殺やエロ・グロ・ナンセンスという退廃的な世相を生みだす社会的基盤になったのも彼らサラリーマン層であったからでもあろう。銀行の閉鎖や商社の倒産、東京市の人員整理などでサラリーマン失業者がふえるとともに新しくサラリーマン層に加わる大学卒業生の就職難も深刻化した。大正期に急速にふえた大学が、大量の失業者を生みだす羽目になったわけである。「大学は出たけれど」(小津安二郎監督松竹蒲田一九二九年作品)という映画が作られ、その題名が流行語になるほど大学出の就職はむずかしかった。なかには大学卒の学歴をわざわざかくして就職する者さえあったといわれている。