失業者に対して当時の大崎町・品川町・大井町などが行なった対策は各町立の職業紹介所の設置と強化であった。隣の芝には浅草と並んで明治四十四年(一九一一)東京市が全国にさきがけてつくった職業紹介所があったが、現品川区地域では大正十二年九月十五日大崎町第二日野小学校の校舎を借りて関東大震災で失業した人々を救済するためにはじめたのが、公共団体による職業紹介の初めだった。十日後の二十五日に正式に大崎町立職業紹介所となり、下大崎一〇七番地大崎町役場構内に設置された。これが現在の五反田職業安定所の前身となった。農村を給源として、買手の大企業は年功序列型という労働市場の閉鎖性から、大企業の労働者の就職募集に関してはあまり有効な機能を果せないという限界を持ちながら、大崎町立職業紹介所は、それなりの発展をとげた。たとえば創立当初の求職者は一六四名だったが、昭和二年金融恐慌の年には八、五八一名、昭和恐慌下のどん底でもっとも失業の多かった昭和七年には一万〇〇六一名と最初の約六倍にふくれ上がった。とくに女子の求職者は当初一三九名に過ぎなかったものが、昭和十二年には約一八倍の二、五三〇名に激増した。これは当時職業婦人という言葉が流行語の一つになったほどしだいに女子の就職が盛んになってきたことや、恐慌下の産業合理化によって解雇される女子労働者が多かったことなどを反映しているものであろう。
次いで昭和三年七月二十三日品川町大字北品川宿一九五旧品川小学校跡に仮事務所を設けて発足したのが品川町立職業紹介所であった。所長以下書記・給仕・小使を含めてわずか五人という小規模なものであったが、九月十三日に庁舎が新築され、体制が整えられた。
昭和六年十月一日、大井町立職業紹介所が設立され、昭和五年六月二日荏原町立職業紹介所も設立された。大井町職業紹介所は関ケ原町一三六〇におかれ、荏原町立職業紹介所は中延三三番地に当初おかれたが、昭和六年四月中延二二番地に移転した。