これらの職業紹介所は昭和恐慌のなかで日傭労働者の登録を開始した。大崎町立職業紹介所では昭和四年十一月二十七日に一八五名、品川では同じ年の十二月八日に五九名、大井が昭和六年末二六〇名を、それぞれ登録した。職業紹介所が特定の日傭労働者を登録した原因や意味はどこにあったのであろうか。一つには、いったん失業すると容易に一般の就職ができなくなった階層が大量に発生したという事情が存在しなければならない。慢性的失業というのは、特定の個人・特定の階層に、こびりついたものであったのである。さらに、これらの階層を日々浮動的に雇用する土木建築工事の拡大が前提とされよう。昭和六年高橋財政の下に全国的に施行された失業救済の諸事業は、逆に、日傭労働者層がたくさん存在したから成立ったともいえる。一つの工事が完成するまでには、一定の労働継続が前提される。その点は府・市・町村で行なう土木工事でも同じことで、ある程度の体力と能力などの条件を満たす者でなければならない。したがって、「登録ハ方面委員警察署長等ノ調査証明ニヨリ」(「東京市大井職業紹介所概要」)生活状態から、素行、場合によっては思想傾向までもチェックされた労働者が、登録されたのである(所得水準、生活困窮乏の著しい層が建前としては優先されたが、作業遂行上、技能をもつ者も必要なので、この点は必ずしも一律ではなかったらしい。)。大正十年職業紹介法が施行され、国家の事業として職業紹介が行なわれるようになってから、もっとも発達したのが、この日傭労働の紹介だった(内務省内中央職業紹介事務局「本邦職業紹介事業」昭和九年十二月)。
登録者数は世界恐慌の日本への波及とともに急激にふえ、昭和七年がその頂点であった(第168表参照)。
年(昭和) | 登録者数 | 求職 | 求人 | あぶれ |
---|---|---|---|---|
1929(4) | 59 | 293 | 277 | 16 |
1930(5) | 319 | 16,463 | 13,471 | 2,992 |
1931(6) | 346 | 117,498 | 89,083 | 28,415 |
1932(7) | 346 | 134,435 | 89,926 | 44,509 |
1933(8) | 296 | 46,862 | 39,506 | 7,356 |
1934(9) | 259 | 50,628 | 32,507 | 18,121 |
(備考) (1)「東京市品川職業紹介所概要」(昭和10年6月調)より。
(2)昭和9年求職求人は男子のみ。
ところで、これら日傭労働者たちは、どういう状態におかれていたのであろうか、各職業紹介所の「概要」に掲載されている簡単な統計資料からみてみよう。五反田・品川・大井・中延(旧荏原)の四つの職業紹介所における昭和九年末現在の数字であるが、総数一、〇六四名その大部分が現品川区の住民とみてさしつかえあるまい。というのは大井の分だけ居住の内訳があるが、二六〇名のうち品川区一八〇、荏原区三、大森区四三、蒲田区三三、芝区一で、ほぼ七割が品川・荏原の計算になるからである。年齢構成では全体の七二・七%、七七二名が三十代と四十代の壮年というか働き盛りによって占められている点が注目される。第二次大戦後現在の日傭労働者が老人層中心であるのと全く対照的である。その一つの重要な要因が、働き盛りであるにもかかわらず、他の一般職業に就職できない特定の階層として朝鮮の人たちが、日傭労働者のかなりの部分を占めていた事情にある。一、〇六三名中三四六名=三二・五%が朝鮮人だったのである。大正期から次第にふえ、やがて太平洋戦争中には炭坑や戦場での陣地構築や、飛行場建設に酷使された朝鮮人労働者が、昭和恐慌下、すでに日本の都市における最下層の日傭労働者の一群として位置づけられていたのである。
紹介所 | 計 | 五反田 | 品川 | 大井 | 中延 |
---|---|---|---|---|---|
年齢階層 | |||||
計 | 1,064 | 199 | 259 | 268 | 338 |
20歳未満 | 7 | ― | 5 | 0 | 2 |
20~25 | 35 | 13 | 14 | 1 | 7 |
25~30 | 124 | 38 | 24 | 19 | 43 |
30~35 | 203 | 39 | 44 | 62 | 58 |
35~40 | 205 | 39 | 47 | 43 | 76 |
40~45 | 206 | 34 | 52 | 58 | 62 |
45~50 | 158 | 25 | 38 | 48 | 47 |
50~55 | 85 | 8 | 24 | 24 | 29 |
55~60 | 27 | 3 | 5 | 10 | 9 |
60歳以上 | 14 | ― | 6 | 3 | 5 |
(備考) (1)「東京市品川職業紹介所概要」(昭和10年2月調)より。
(2)荏原町立職業紹介所は中延職業紹介所に改称。
職業紹介所 | 計 | うち朝鮮人 |
---|---|---|
品川 | 259 | 51 |
大井 | 268 | 107 |
五反田 | 198 | 98 |
中延 | 338 | 90 |
計 | 1,063 | 346 |
(前掲第1表に同じ)
第2表と合計が違うが,原資料のままにした。
就労現場は、大井の場合だと、東京市の事業が一二〇名中八二名と圧倒的に多く、ついで東京府が三一名、民間は六名にすぎない。道路工事や河川の埋立など、いわゆる土方仕事で、現場は屋外がほとんど全部だったから、冬は吹きっさらしだし、夏は炎天下で苛酷な労働だった。昭和六年頃大部分は日給二~三円という低賃金だった上に、前掲第168表でみたように毎日稼働が保障されていたわけではなかった。たとえば昭和七年品川職業紹介所では延四万四五〇九日のあぶれであったが、これを登録の日傭労働者三四六人一人当りで割当てると一二八・九日、月に直すと十・七日、約一一日、したがって一九日ないし二〇日が月平均稼働日数となる。だから、月収は四十六円、しかも残業手当も何も一切なしの裸賃金である。その上、失業保険も健康保険もなかったから、全く歌の文句通りで「土方殺すにゃ刃物はいらぬ、雨の十日も降ればよい」実情にあった。せいぜい東京市労務者共済会という互助施設があり、「公傷ニヨル治療休業扶助」が、作業中の負傷にだけ若干の扶助が与えられただけであった。だから、少々の風邪で休むなどということはできなかったが、一たん病気になると悲惨だった。梅雨や年末・年始などかなりの期間全く就労できないとなると、ほとんどたくわえのない階層だから、その間食事もできない状態だった。各町の財政では負担できないために、建前としては廃止していた「食糧券」なるものを、そういった期間に支給したらしいが、どの程度のものであったのだろうか。
紹介先 | 計 | 指定並技術工 | 配給 | |
---|---|---|---|---|
東京市 | 土木局品川区出張所 | 46 | 16 | 30 |
〃 | 〃 大森区出張所 | 36 | 16 | 20 |
東京府 | 第一河川 埋立 | 1 | 1 | |
〃 | 〃 用市 | 1 | 1 | |
〃 | 〃 蛇崩 | 1 | 1 | |
〃 | 第一道路8号線 | 5 | 5 | |
〃 | 品川土木 123号 | 24 | 4 | 20 |
民間 | ヤンソン工場 | 6 | 6 | |
合計 | 120 | 45 | 75 |
(備考)(1)「東京市大井職業紹介所概況」より。
(2)この当時すでに日傭労働者の中を指定ならびに技術工と一般配給に区分している。これは失業対策が目的だといっても,その工事の目的,財政上の経済性が考慮される結果,施主側から出される当然の要請によるものとみられる。
なお、日傭労働者の生活状態の一面を示す家族数をみると、家族持ちが大部分であり、しかも五〇七名の五割近い労働者が家族五人以上である。戦後・現在の日傭労働者が単身ないし、二人世帯が大部分であるのと比較して、興味深い対照をなしている。戦前は、貧乏人の子沢山というのが通り相場であったが、日傭労働者層にも、それは一貫してみられたわけである。
職業紹介所 | 計 | 品川 | 五反田 | 中延 | 大井 |
---|---|---|---|---|---|
家族数 | |||||
計 | 1,064 | 259 | 199 | 338 | 268 |
独身 | 144 | 74 | 35 | 35 | ― |
2人 | 78 | 22 | 22 | 24 | 10 |
3~4人 | 335 | 87 | 66 | 105 | 77 |
5~7人 | 422 | 62 | 69 | 141 | 150 |
8~9人 | 78 | 14 | 7 | 30 | 27 |
10人以上 | 7 | ― | ― | 3 | 4 |
(前掲第170表に同じ)
昭和七年(一九三二)東京市併合にともない、これらの町立職業紹介所は東京市のそれとして編入され、そのさい大崎は五反田職業紹介所と改称された。