品川遊廓の変化

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大正期から昭和初期にかけての慢性的不況、とくに昭和恐慌下において、農村は日本経済のなかでも最も深刻な打撃を蒙った。とくに冷害凶作と重なった東北地方では貧乏をとおりこした飢餓・破滅におちこんだ。もともと、当時の東北地方の大部分の農民は稗や粟などの雑穀を常食にしていた。凶作になって新聞に報道され、都市の人々が〝栃の実や楢の実までたべている〟と騒ぎだしたが、実は豊年のときでも食べていたし、馬は母屋に入れて大切に飼っていたし、ふとんの下に藁を敷いていた。これが日常生活だった。問題はそういう貧乏な状態のなかで、凶作と恐慌のあおりをもろにこうむった結果、もう食べる物がなくなり、売る作物がなくなり、出稼ぎから最後の手段としての娘の身売りが激増したことにあった。その身売り先の一つが品川遊廓だった。

ところで日本の社会が近代への転換を遂げるとともに、品川遊廓もしだいに近代的に変化していった。

 その一つに大正五年(一九一六)の娼妓張見世の廃止を挙げることができよう。張見世とは道路に面した一室に娼妓を並べ、遊客が好みの者を選ぶようにしたもので、普通、格子などでのぞけるようにしてあった。西洋流にいえばさしずめ〝ショーウインドーの女〟ともいえる、極めて刺激的な制度だった。八月三十一日警視庁令で廃止されたのだが、その理由として非文明的で風俗上面白くないということであった。事実張見世をなくしてから、地廻りとかひやかしは激減したといわれる。品川遊廓でも張見世を早速改造し、各貸座敷とも順次娼妓の名入写真を玄関に掲げるようになった(『品川遊郭史考』一〇二ページ以下)。


第127図 引手茶屋(『品川遊廓史考』より)

 もう一つ注目すべきは関東大震災後の、異常ともいえる品川遊廓の繁昌ぶりだった。東京最大の遊廓であった吉原が関東大震災で壊滅し、中心の弁天地はまるで女の生地獄だったという惨状を呈したのに品川遊廓は多少震害はあったが倒壊とか火災などはなかった。しばらく「一般被害者の惨状に顧み、深く慎みて休業」したが、警察当局から一日も早く開業せよという注意を受けたので十月一日営業を再開した。警察が遊廓に開業を急がせたのは、戦災で慰安がなくなり、人心が殺伐となってきたからというものだったらしい。

 ところが、品川遊廓が再開されると、当分は飲食物を一切出さないで、時間制度にした「遊興味の薄いもの」だったにもかかわらず、客の殺到する有様は実にすさまじいばかりで、数ヵ月間は連夜満員客止めという盛況だった(前掲書一〇五ページ以下)。

これを統計でみると、震災の翌年、大正十三年(一九二四)は、客数では五二万七〇〇〇人、前年の三三万四〇〇〇人の約一・六倍にふえた。大正期後半から昭和の初めにかけて、年々遊客数が減少傾向にあった品川遊廓にとって大震災は挽回の機会でもあったことになる。営業高でもこの年は大正期後半のピークをなしている。ただし、震災前と後では、営業高(遊郭では水揚高といった)は一六〇万円前後から一三〇万から一一〇万円の水準へと下降してしまった。遊客一人当りの消費額も大正九年~十二年の四円台から三円台へと下がってしまった。この傾向は、関東大震災を境にして品川遊廓の営業内容、客の遊び方が一つの転換期を迎えたことを示している。すなわち、飲食物の消費が減少し、もっぱら娼妓一本化の方向への変化である。

第173表 品川遊廓の繁昌
年度 客数(対前年度比) 営業高(対前年度比) 客一人当り消費額
円 銭 円 銭
大正7年 395,226 882,531.88 2.23
8 416,921 (105.5) 1,232,808.00 (139.7) 2.96
9 391,753 (94.0) 1,625,896.88 (131.9) 4.15
10 370,350 (94.5) 1,659,348.12 (102.1) 4.48
11 356,185 (96.2) 1,658,643.44 (100.0) 4.66
12 334,555 (93.9) 1,623,525.35 (97.9) 4.85
13 527,446 (157.7) 1,784,378.88 (109.9) 3.38
14 349,049 (66.2) 1,302,004.50 (73.0) 3.73
大正15年(昭和元) 327,598 (93.9) 1,171,403.09 (99.7) 3.58
昭和2年 322,435 (98.4) 1,142,595.13 (97.5) 3.54
3 355,055 (110.1) 1,257,991.59 (110.1) 3.54

(1) 品川三業組合『品川遊廓史考』106~107ページより引用(2)( )内対前年度比

 この変化は、たまたま関東大震災によって一時的にとられた貸座敷業者の営業方針というだけにとどまらず、一つの歴史的傾向であった。

 酒肴代金は、たとえば震災前大正十年貸座敷で八六万一八七〇円の所得があったのに、震災後の大正十五年には五四万九、五七六円に減少し、一時五八万円まで回復したが、昭和五年昭和恐慌の年には一気に二六万九六二三円に半減し、さらに昭和六年以降は一〇万円台になってしまった。引手茶屋が酒肴代金のなかで占める所得もいっそう急激に減少傾向をたどった。芸妓揚代金も、これと同じ傾向をたどり、昭和恐慌時代に入ると品川遊廓で芸者を揚げて遊ぶ客というのは、ほとんど例外的な存在にまでなった。遊客一人当りの消費金額は震災後の三円台から、昭和恐慌下には二円台へと下がった。

 品川遊廓の営業内容の変化は、遊客の社会的階層の構成の変化とも照応していた。『品川遊廓史考』によれば、かつての遊客の主流は各藩大名屋敷の留守居役などの権力者がお得意だったが、現代ではおもに中産階級以下のサラリーマンや商人、それに労働者階級に変わったと述べている(前掲書一六一ページ)。

 品川遊廓全体としての所得も第一次大戦による好況期から震災前辺りには一二〇万円―一三〇万円を頂点に、震災後は減少傾向をたどり、昭和の初めの一時期とほぼ同じ水準近くまで回復したが、昭和恐慌下で七〇万円台に落ちていった。それにもかかわらず、娼妓揚代金のなかからの貸座敷業者所得は、ほとんど例年のようにふえていったのである。明治末期から大正初期にかけて八―九万円だったが、第一次大戦の好況期に一八万円台になり、関東大震災で急に三〇万円近くにふくれ上がり、その後一時減少したが、昭和恐慌下でもほぼ四〇万円台の水準を確保した。昭和七年の貸座敷は四二軒、娼妓四〇七人、一軒当り娼妓平均九・六九人を抱え、四一万五三六〇円二四銭の所得をえている。一軒当り九万八八九五円二九銭五厘、現在の物価にひき直すと、かりに千倍とみて九、八〇〇万円、ほぼ一億円にも達する。当時の「カード階級」が一日五〇銭から八〇銭くらいの稼ぎだったが、それだと一月一五円から二五円、年間で一五〇円から三〇〇円であった。一五〇円と九万円、実に六百倍もの格差が現実に存在していたのである。


第128図 品川座における娼妓慰安会

 他方、品川遊廓の働き手である娼妓たちの所得はどうだったろうか。総額でみると明治末期から大正初期にかけて七万円から八万円の水準にあったものが、同じ大正期の好況のなかで一〇万―二〇万円台にふくれ上がり、震災後から昭和初めにかけて三〇万円台にまでなったが、昭和恐慌期には、逆に二〇万円台に減少した。娼妓が稼いだ水揚代金のなかで娼妓と貸座敷の間の分配率は明治三十三年娼妓四七・七%、貸座敷五二・三%だったものが、昭和七年には娼妓が三三・一%、貸座敷六六・九%へと変わった。もし搾取率という尺度でみるならば、明治三十三年には一〇九・六だったものが、昭和七年には二〇二・一と二倍になったことを意味している。娼妓一人当り一日平均の遊客は明治三十三年一・七五人だったが、昭和七年は二・〇四人、昭和九年には二・六二人になり、労働生産性というか、稼働率が高まった分だけ、搾取も強化されたといえる。

 こういった傾向は、日本資本主義の発展が品川遊廓にもたらした変化であったということができよう。ところで、昭和七年娼妓の一人当り所得は五〇四円二六銭二厘、月で四二円二銭一厘、苛酷ないまわしい仕事にしては、せいぜい、安サラリーマン層の所得でしかなかった。しかも、この所得のうちから、おそらく食費や部屋代などが差し引かれたものと推定される。極端になると、夜具代・家具代などの賃料もピンハネするものも他の遊廓ではみられたところであるが。

 ところで、昭和五年二月七日のある貸座敷における営業状況を大福帳からみておこう。来客は二六組、六〇人、売上高一六三円三〇銭也、飲食したのは五組、一三人だけ、それも一組だけが二人で九円五〇銭分も飲食してかなり豪遊しただけで、あとの五組のうちサイダー一本だけ八〇銭、そば一円五〇銭の者さえいた。あと二組が二円六〇銭、六円四〇銭、酒や食事をとっているだけである。それゆえ全体で二〇円八〇銭だけが酒肴代であったとみられる。来客のうち「フリ」の客が二三人、「なじみ」が三七人の割合である。遊び代金は一人の場合三円、二人以上の場合は一人当り二円二五銭の計算になっている(第174表参照)娼妓はこの大福帳にでてくる限りでは一一名と平均よりやや大きい貸座敷だったものとみられる。一人当り五・四五人の客の勘定になる。これは品川遊廓全体の昭和五年平均一・九八人にくらべると異常に高いが、季節や日などで繁閑の開きが相当あったからでもあろう。各娼妓の働きぶりを示すと、次の表のとおりである。よく売れる娼妓にいたっては一日一〇人―九人の客をとっている。しかも、エースの小太郎は六組めに泊り客となっているあともさらに四人の客をとっているから、いわゆる「まわし」をしているわけである。これは、当時の遊廓では当然のことだったらしい。

第174表 品川遊廓某貸座敷の来客グループの人数別組数と代金

昭和5年(1930)2月7日

組数 代金
円 銭
1 10 3   
2 9 4 50 
4 6 9   
8 1 18   

(備考) 代金は飲食代を含まないもの。

第175表 品川遊廓某貸座敷の娼妓別来客数

昭和5年(1930)2月7日

娼妓 グループ
小太郎 6 10
九重 4 9
若きく 4 6
大巻 3 6
花扇 3 6
弥生 2 6
乙丸 3 5
静の 3 4
小町 1 2
梅木 1 2

 

 また、大正十二年(一九二三)大震災後十一月に矯風会はじめ各種の婦人団体が全国公娼廃止期成同盟会を結成したのに対して、翌昭和十三年一月、東京府下の貸座敷業者は品川三業組合事務所に集まり、当時の品川三業組合取締浅井幸三郎が東京府貸座敷連合会長となり廃娼反対運動をはじめた。昭和三年二月第七回全国貸座敷連合会で品川の浅井が会長に就任した。浅井幸三郎は後に品川区会議長にもなった人である。