三井家から戸越公園の寄付

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昭和七年はまた、血盟団事件や五・一五事件などの血なまぐさい右翼テロの横行した年でもあった。とくに、二月前蔵相井上準之助についで、三月五日三井合名理事団琢磨が殺されたのを直接のきっかけとして、団に代わって大番頭のあとめをついだ池田成彬は、財閥批判の世論をかわし、財閥転向の一環として、失業救済に三〇〇万円を政府に寄付したが、それと同じ六月に戸越農園の一部を荏原町に寄付した。平塚村時代から村民の間で開放すべしとの声もあったが、ようやく実現したわけである。戸越農園三万一〇〇〇坪のうち八六五〇坪が大東京市制実施記念として町に寄付された(「東京朝日新聞」昭和七年六月九月)。

 そのうち五〇〇〇余坪を戸越公園とするための工事が、昭和九年二月から翌昭和十年三月二十日まで行なわれ、工費一万七〇〇〇円余も三井家からの寄付金でまかなわれた。三月二十四日日曜日、東京市と荏原区の主催で開園式が挙行され、公園らしい公園のなかった荏原区民に歓迎されたことはいうまでもない。「この公園は大自然のままの眺めにして園内の中央には池あり築山あり、鬱蒼と茂る並木道は恰かも箱根路を髣髴せしむるに充分である。また築山には樹齢百年に及ぶ老木が数知れずこんもりと生え市民のよき公園であり、公園のない荏原区民に取っては誠によき散歩道であり唯一の安息所でもあらう」とローカル紙は報道した(「城南文化新聞」昭和九年)。


第129図 区民の憩いの場として完成した戸越公園


第130図 戸越公園の開園を伝える記事
(『城南文化新聞』昭和9年9月6日)