富国強兵・殖産興業のかけ声のもとに、西洋においつきおいこせを目ざして、明治以来資本主義を発展させてきた日本では、貧困者の救済問題は国政上では軽視されていた。社会事業は、わずかに宗教関係や個人の篤志家によってささやかに行なわれたにすぎなかった。
すくなくとも大正期まではこのような状態であったが、大正七年の米騒動によって、民衆の生活とくに貧しい階層の救済が大きな社会問題としてクローズ=アップされた。ひきつづいて大正十二年の関東大震災・昭和恐慌はいっそう深刻な生活難をひきおこし、とくに全国で三〇〇万人ともいわれた尨大な失業者や貧農の生活は、公的救済制度がないに等しい当時の状況にあっては悲惨をきわめた。小学校や託児所では弁当をもってこられない子どもがふえ、欠食児童という言葉が流行し、社会の関心を集めた。新聞によれば当時都下の欠食児童約一万人と報道されていた。これらの児童や託児所の約一、七〇〇人にたいして一時的に給食が行なわれた。
現品川区地域でもこのような社会情勢を反映して、大正末ころから応急的に、貧困者のための救済策が、公私とりまぜて行なわれるようになった。当時の品川区地域は、東京のなかでも京浜工業地帯の一部にあるだけに、商工業の発展の著しい、いわば東京の高度成長地域であった。たとえば世帯別平均月収をみると、品川区・荏原区は東京市平均月収額を多少ながら上まわっている。しかしながらこの調査から、品川・荏原両区民の生活が、他の区の生活より必ずしも良いとは簡単にはいえないのであって、少数の高額所得者の存在が、多数の低所得者の存在にもかかわらず、全体の平均値を引きあげたとみられる。商工業地帯だけに、商店主や工場経営者、大井工場など官営の労働者や大企業の労働者も多かったことが、平均月収上昇の要因として大きく作用していたものと推測される。広範な中小零細企業労働者など低所得者層の存在にもかかわらず、当時においても応急的・姑息的なもの以外、社会事業といえるほどのものはほとんど皆無といってもよかった。同じ東京市のなかでも中野区などでは、公立の施設がいくつかあったほか、私立の施設が一〇ほどすでに設けられていた。
社会事業施設が都市化のあまり急速でない農村的なへんぴな土地柄をえらんで設置された――たとえば公立の結核療養所や、私立でカトリック系の孤児院が設置された――ということも考えられる。現品川区地域は社会事業に関しては、他の地域にくらべても非常にたちおくれていたといわなければならない。
つぎに当時の品川・荏原地域の貧困対策のいくつかを概観していくことにしよう。