(ロ) 済生会診療所

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 品川・荏原地域で主要な社会事業施設の一つであるのが、済生会診療所である。四ヵ所に設けられていて、品川診療所・三木診療所・大崎診療所・大井診療所である。品川・大崎・大井各診療所は大正十一、二年、つまりいずれも大正末期に設立されている。三木診療所は品川診療所の出張所として、昭和七年十月に設けられた。

 労働者を対象とする健康保険制度は、大正十三年に遅ればせながら制定されてはいるが、その対象となった労働者の数は、全体からみればほんのわずかで、大部分の労働者と全人口の五割にも達する農民にとって、つまり国民の大部分にとって健康保険制度は無縁の存在であったといってよい。このため健康で働いていてさえぎりぎりの生活であるのに、ひとたび一家の誰かが病気になれば、たちまち医療費が家計に重くのしかかってくるのが常であった。とくに一家の働き手が病に倒れたり、当時亡国病といわれた結核のように、長期療養を要する場合は、その家庭生活はたちまち破壊に至ることもめずらしくなかった。貧しい結核患者のための無料の療養所は、当時非常に少なかったが、やっとはいれたとしても、あとに入所希望者がつかえているため、病気が快ゆしようとしまいと、何ヵ月かたつと退所させられてしまうとか、また、入所後一家離散してしまい、いざ退所というとき、家族が迎えに来るどころか帰るべき家庭がない、家族から見捨てられてしまう患者さえも少なくなかった。

 病気は貧困の最大の原因であり、さらに貧困が貧しい食事や、劣悪な生活環境から、病気をひきおこしやすいという病気と貧困の悪循環は、数えきれないほどの悲劇を生んだ。

 当時はこの悪循環をたち切るための施策は、皆無に等しかった。

 この意味でも四ヵ所の済生会診療所の存在は、貧困救済のためにそれなりの役割を果たしたとみられる。済生会診療所の活動状況についての実態は、はっきりしないが、大井診療所について、次のような数字が記録されている。

 昭和六年度までの八年間における同診療所の施療患者数は、男二、四〇四人、女二、一七四人、延人員にして男三万八八八〇人、女四万四八五〇人、計八万三七三〇人である。一日あたり三〇人足らずの施療患者が、大井診療所を訪れていることになる。入院患者は八年の間に、男女計二四名で、一年間に三人程度で少ない。施療患者として同診療所を訪れる人の病気の状態は、単なる風邪とか頭痛とか、簡単なものばかりではなかったであろう。それどころか日頃の不健康な生活から、単なる風邪とみえても余病を併発したり、悪化することが一般の人より多かったのではないだろうか。また単なる風邪や頭痛ぐらいでは、施療患者となることをさけたかもしれない。施療患者が、どの程度の治療を受けることができたか詳かではないが、それでも貧しい人々にとっては済生会診療所の存在は貴重なものであったと思われる。

 済生会というのは、明治四十四年に恩賜金・一般寄付金を基金として設立された財団法人である。貧民救療を目的として全国に済生会の病院・診療所が設けられた。形式的には民間社会事業として運営されたが、設立の経過からも明らかなように、半官半民的な性格が強い。もともとが恩賜金を中心に、政府によって設立されたものであり、事業の運営も、毎年予算を各道府県に分配し、地方長官に委託しておこなった。東京市だけは済生会が直接管理した。済生会は恩賜金というなかば公的な資金を基金にして、しかも財団法人という民間の社会事業として運営されるという、いわば半官半民というか、あいまいな性格をもたされていた。このような社会事業のあり方は、公的な社会事業の未発達な戦前の特徴で、もともと公の責任で管理運営されなければならない施設が、民間に委されることによって、国などの公の責任が回避されることが多かった。済生会はその上に、恩賜金という〝虎の衣〟ならぬ〝皇室の衣〟を借りることによって、この効果をいっそう大きいものにしていた。済生会だけではなく、たとえば年末年始、水害や地震などの災害がおこると、そのつど皇室から、御下賜金という一時金が貧民や被災者に出される。その金員は、それらの人々の救済にそれなりに役立っているのであろうが、給付金に皇室の名をつけることによって、少ない金額で大きな効果をあげることに成功したのである。戦前は皇室と社会事業の結びつきは深かったが、当事者の意図は別にしても、結果的には皇室は、公的な社会政策・社会事業の未発達をごまかし、むしろ反対に発達を遅らせた役割を果たしたことはあきらかである。