(ハ) 隣保館

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 済生会診療所と同様に、半官半民的な施設が他にもいくつか設けられていた。済生会のように、資金をいわば公的なところから出して、運営を民間にまかせるもの、民間の寄付金を基金として、公の管理のもとに運営がなされるもの等いろいろあるが、いずれにしても、公的な社会事業の欠如の代替の役割を荷なっていたとみなければならない。国家は、その分だけ社会事業関係に投ずべき予算を節約して、軍備費など他にまわしていたわけであり、こうした国の責任の回避の犠牲になっていたのは、貧困者およびこうした施設にたずさわる人々であった。ちなみに施設従業員の低賃金は、人類愛の大義名分のもとに、当初から社会事業の特徴であり、ひとつの常識とさえなっていた。

 そのような施設の第一は大井隣保館である。大井隣保館は、大震災の善後策として交付された金員で建設経営された。経営主体は、財団法人大井社会事業助成会で、これは昭和六年に発足し、方面委員の活動を援助するためにつくられた。町長以下の町の有力者が中心となって、会員の出金や寄付金を資金としている。町内会と同じように、公私どちらともいえない団体によって、なかば公的施設として運営されていた。

 おもな事業内容は、保育事業・図書事業・診療事業(先にのべた済生会大井診療所は、この大井隣保館内に設置されていた)児童健康相談および訪問事業・人事(法律)相談・教化事業等いろいろ行なわれていた。


第132図 大井隣保館

 隣保館と同じような運営形態をとっているものに品川託児場と荏原授産場があった。

 品川託児場は、昭和十一年十二月、品川寺境内に新築された。三井慈善団からの寄付金を基金として婦人会が経営することになった。工業地帯であり、婦人労働者も少なくなかったが、この地域に託児場が設けられたのはこれがはじめてのことであった。それまでは、子どもをもつ婦人労働者の多くは、祖父母や兄姉に乳幼児の子守をゆだねたり、工場へつれていってそばに置いておくより方法がなかった。官営工場や大企業で、紡績産業のように、婦人労働者を大勢使っているところでは、企業内に託児場を設けたところもあった。しかしそれはほんの僅かで、泣く子に後ろ髪をひかれる思いで、それでも職場に向かわなければならないのがふつうであった。この点は中小企業に働く婦人も、知識労働者である女教員も同じであった。

 婦人会の運営にゆだねられた施設に、もう一つ荏原婦人会授産場があった。大正十三年十二月、建設計画の段階では、品川尋常小学校の敷地の一部に、東京府副業奨励会を通じて、御料林下賜の木材を使用して建築ということになっていた。こうした授産場は、生計に苦しむ人々に内職をあっせんした。昭和十年、品川区・荏原区で内職をしていた人の業態別の数が第176表である。

第176表 区別業態別内職従事者数(昭和10年度東京市内職調査・東京市役所)
業態別 従事者数 業態別 従事者数
大分類 細分類 品川区 荏原区 大分類 細分類 品川区 荏原区
洋傘 修理 1 0 製本 製本折り 1 1
1 0 1 1
莫大小(メリヤス)及靴下 小秤紐組み 0 1 玩具 玩具雑口 1 1
メリヤス仕上の手伝い 1 0 1 1
毛襯衣の釦付 0 1 文房具 鉛筆芯入 0 1
ゴルフ靴下模様縫 0 1 0 1
毛糸編物 0 5 紙製品 化粧箱の加工 1 0
毛糸かがり 1 乾電池用箱貼 7 0
メリヤスかがり 1 24 ボール箱の表装 7 0
古靴下ほぐし 1 2 紙袋貼 4 7
軍手かがり 1 1 煉炭箱レッテル貼 1 0
4 36 紙ストロー巻 4 0
染色 洗張及仕立 2 0 マッチのペーパー貼 1 0
洗張 13 1 造花加工 1 0
端縫 0 1 26 7
15 2 武道具 柔道着刺子 1 0
裁縫品 和服仕立 45 19 1 0
エプロンミシン掛 1 0 木竹等の加工 竹皮加工 1 0
洋服釦付 0 1 竹串の製造 1 0
46 20 2 0
機械器具 電話線加工 0 2 紡織品製造 屑紐つなぎ 1 0
電気コードサシ 0 1 マニラ麻つなぎ 0 1
コイル 0 1 1 1
電話交換用マメッチ製造 1 0 雑業 紙撚り 1 1
乾電池部品 1 0 糸巻き 1 0
2 4 石綿つなぎ 2 0
電球 豆電球の仕上 8 0 メリヤス撰り分け 0 1
乾電池の糸巻 3 0 旗の房付 0 3
電球の箱詰 1 0 雲母板造り 0 2
豆電球の口金造 1 0 4 7
エンビキの加工 1 0 総計 119 80
電球の継線 1 0
15 0

 

 問題は、この内職の工賃が、想像できないほどひどく安いものだったことである。一日中、働きづめに働いても、工場にでて働く場合の三分の一とか、四分の一、大企業の賃金にくらべると五分の一から十分の一というものさえあった。だから、授産場は、一方では、たしかに、貧困者に最低の職を与える役割をしたとはいえ、他方では、そういった人々を組織して働かせ、低賃金をつくりだす役割をもっているという皮肉な一面ももっていた。

 本来、公の責任で運営されるべき社会事業施設が、このように、民間に委託された形をとって運営される場合、資金が十分に保障されるならばともかく、むしろ費用のきりつめのために、こうした委託方法がとられたといってよい。当時、事あるごとにおこなわれた御下賜金についても、「皇室の御思召」という衣裳をまとわせることによって、貧しい人々の正月のための餅代が僅かに恵みとして、与えられた。