(ニ) 方面委員制度

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 東京ではじめて方面委員制度が実施されたのは大正九年十二月で、米騒動の翌々年であった。低所得者が多い下谷・深川の両区に当初おかれた。その後方面委員がおかれる区が次第に拡張され、品川区・荏原区には、昭和七年十月の市郡併合を機に設置された。

 方面委員には、ふつうその地区の警察署長や町会の推せんで、近隣の信望あつく、しかも貧困者のことなど近隣の事情にくわしいと思われる人が選ばれることになっていた。それに、方面委員は無給のいわば名誉職であったから、相当程度の生活を営んでいる人でなければ、職務を果たすこともむずかしかった。そのため、その地の有力者で地主・家主とか、住職とか神主とか、閑職とはいわないまでも、自分の本職の合い間に方面委員の職務が果たせるような人が選ばれることが多かった。

 名誉職とはいえ、昭和七年一月に実施された救護法の救護委員もかねて、方面委員の職務内容は、広範多岐にわたるものがあった。当時は社会保障制度はもちろん、社会保険制度も一般には普及しておらず、救貧行政は未分化のまま、一番の出先機関である方面委員のところに、あらゆる問題がもちこまれることになった。誠実に職務を果たそうと勤めた方面委員にとっては、相当な激務であったであろう。

 救貧行政の先兵として、方面委員の果たした役割は大きい。その一つに救護法がある。政府は昭和恐慌と、それにひきつづく国民の生活難の増大にもかかわらず、救護法の実施をしぶり、のばしていた。国民の生活難をまのあたりに見聞きし、その処遇に苦慮していた方面委員は、ついに天皇陛下に上奏の挙に出て、それを契機に救護法はやっと実施されることになったのである。

 この例でもわかるように、救貧行政が貧弱なまま、その最前線におかれた方面委員の立場は責任の重さとともに、現実との矛盾に悩まされることが多かったであろう。このような重要な役割を、無給の名誉職ですませた国の姿勢は、問題とされなければならない。

 方面委員が名誉職であった弊害のあらわれとして、その地位が選挙に利用されたり、悪用されることもあった。昭和九年三月五日の「関東朝日新聞」は、荏原区方面委員会の不正事件を報じている。

   荏原区方面委員長某と主任某は結託して、次のような不正を行なったということである。記事を引用すると、

 

   一、一昨年、市郡合併とともに府から市に方面委員事務所が引つがれた際白米二俵半

   二、元荏原町議某等の自治会から、昨年中救済費中に寄付した廿五円

   三、小山某から同様寄付された五十円

   四、昨年白米配給の際食券千枚

(これは要救護者に配付すべき食券を握り潰し、それ丈け市の配給米を誤間化し、密かに白米商某と結託し売払って其代金を着服した疑ひ等々である)。

 

 右の新聞記事によると、不正といってもわずかに米二俵半とか二五円とかであるが、たとえわずかなものでも、それが食うや食わずの貧しい人々にわけ与えられるものを横領したのであるから、まったく方面委員ならずとも非常識な行為である。方面委員が名誉職であったため、社会事業にたいする専門的な知識や技術・認識をもちあわせた人を選ぶということは困難であっただろうと思われる。選考の基準が地域の有力者というか、顔や経済力など他の基準におかれがちであったことも、名誉職ということから生じた問題点であった。そのために、なかには先のような事件が起きたり、選挙に利用されたりという弊害も生じた。

 この事件がどのように処理されたかについてはわからないが、東京市では後日方面事務所の金銭出納などを中心に調査がおこなわれた。

 一体、方面委員制度のようなものがいかなる役割を果たしうるものか、いろいろ考えられるが、少なくとも社会政策なり社会事業諸施設が一定の水準を充たした上で、各個人や各地域の特殊な問題・制度だけでは割り切れない問題に対処するためならば、このような制度でもかなり有効性を発揮しうるであろう。ところが基本的な政策や施設を欠いた状態で、方面委員制度だけ、ともかくあるという場合には、方面委員がそれらの制度の欠如の代替の役割を荷なわされることになる。それが政府の安上がりの救貧政策の結果である場合には、漏救を防ぐというよりも乱救を防ぐこと、それ以上に救済対象をできるだけ少なくするための役割を果たすことになる。戦前の品川区・荏原区の社会事業の実態をみても、この例外ではなかったものといわざるをえない。