(ホ) 無産者託児所

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 米騒動のような社会問題の発生にたいして、一方では社会政策や社会事業をほどこすことによって社会問題の緩和を画するが、他方で治安対策を強化し、労働者や農民の下からの動きに圧力を加える。大正末期から昭和期に入るとともに、少しずつながら社会政策・社会事業がすすめられると同時に、左翼的活動にたいする取締りは、年々厳しさを増していった。

 品川地域は工場地帯であるところから、労働運動や無産政党運動が東京のなかでも盛んな地域であり、それと関連した社会事業もいくつか行なわれていた。しかしそれも運動にたいする弾圧が強化されるとともに、やむなく解散したり閉鎖されたりするものが続いた。

 日本労農救援会準備会の荏原無産者託児所が、品川区大崎町一一六に設立されていた。ところが、「昭和八年八月以降の労救主脳部の検挙に関連し、〓姆其の他の関係者も検挙せられたるため、荏原託児所は遂に解散するに至れ(「特高月報」昭和九年二月分二八ページ)

注 日本労農救援会とは「特高月報」(昭和五年三月分八三ページおよび昭和六年十月分七ページ)によれば次のように記されている。

 一九二八年野田大争議犠牲者救援を、創立第一の仕事として組織されたのが赤色救援会であり、その活動の一分派である無産者病院設立実行委員会によって、ベルリンの国際労働者救援会の日本支部組織のよびかけをうけて、左右中間各無産団体を糾合して、昭和六年十月暫定組織として結成されたものである。

 このほか大崎に無産者診療所が設けられたような記録がのこっているが、その実態についてはあきらかでない。